「木曽谷」の版間の差分

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古代末期から中世初期にかけて、王滝川を挟んで北側の大吉祖荘([[藤原親綱|宗像少輔]]領)と、南側の小木曽荘([[八条院領]])の2つの[[荘園]]が史料上に現れ、中世中期([[14世紀]])頃までその名が見られる。大吉祖荘は信濃国、小木曽荘は美濃国と書かれる傾向にあった。14世紀までに[[常陸国]]の[[真壁氏]]が[[地頭]]として木曾谷南部の小木曽荘を支配していたが、[[建武の乱]]の勲功で[[足利尊氏]]から木曾谷北部の大吉祖荘を恩賞として与えられた[[上野国]][[沼田氏]]が当地に入部すると、沼田氏は木曾谷全域へ支配を広げていった。沼田氏は当初、[[藤原秀郷]]の末裔を自称したが、後世、源義仲の末裔を称して[[木曾氏]]と名乗った。
 
15世紀末には、新たに木曾荘が登場する。木曾荘は16世紀前半まで美濃国として史料に現れる。美濃国恵那郡であった木曽全域が信濃国になった時期について、[[信州大学]]人文学部の[[山本英二]]准教授が大桑村の[[定勝寺]]の古文書の回向文の中から年代が分かる5点で、[[1491年]]には、美濃州恵那郡木曽庄とあるが、[[1515年]]には、信濃州木曽荘と書かれていたので木曽が美濃国恵那郡から信濃国へ移ったのは1491年から1515年の間と結論付けた。 16世紀半ば頃に当地を支配下に入れた[[武田信玄]]は木曾谷を信濃と認識した。「木曾谷は信濃」の認識が定着したのは、おそらく信玄以後のことだろうと考えられている。[[江戸時代]]初頭になると、全国各地の建設ラッシュに応えるため木材生産地として開発され、本来の信濃である奈川、奈良井、贄川の3ヶ村(いずれも[[信濃川]]水系)とともに[[1615年]]([[元和 (日本)|元和]]元年)、[[尾張藩]]に組み入れられた。その後、[[ヒノキ]]を中心とする林業が隆盛した。(詳細→[[#林業]]節)
 
明治以降も林業が産業の中心を占め続け、交通の相対的な不便さもあって近代産業の発展は見られなかった。その反面、近代以前の景観がよく保存されており、貴重な観光資源を形成している。
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