「チャールズ1世 (イングランド王)」の版間の差分

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一方、チャールズ1世は議会に対抗するため[[1641年]]8月にスコットランドを訪問、盟約派の幹部である[[アレクサンダー・レスリー (初代リーヴン伯)|アレクサンダー・レスリー]]と[[アーガイル公爵|アーガイル伯爵]][[アーチボルド・キャンベル (初代アーガイル侯爵)|アーチボルド・キャンベル]]をリーヴン伯爵・アーガイル侯爵に叙爵、アーガイル侯と対立し投獄された[[モントローズ公爵|モントローズ伯爵]](後に侯爵)[[ジェイムズ・グラハム (初代モントローズ侯爵)|ジェイムズ・グラハム]]を釈放させ、スコットランドの[[長老派教会]]を認めるなど譲歩で味方に付けようと図ったが、アーガイル侯らは敵対姿勢を継続したため当てが外れた<ref>森(1988)、P319 - P320、トランター、P274 - P276。</ref>。
 
長期議会はピムが専制政治非難を続行、国王大権を制限するため改革法案を立法化、トン税・ポンド税・船舶税・星室庁・高等宗務官裁判所などが廃止され王権は制限をかけられ、ストラフォード伯とロードも議会に責任を問われ弾劾・投獄・処刑される事態となった(ストラフォード伯は1641年5月、ロードは[[1645年]]1月)。アイルランドでも同年10月に反乱が起こり[[アイルランド・カトリック同盟]]が結成され、イングランドが政情不安に包まれる中、11月に[[議会の大諫奏]](大抗議文)が議会で可決、追い詰められたチャールズ1世は翌[[1642年]]1月、兵隊を率いて反国王派のピム・ハムデンら5人の議員を逮捕しようとして失敗、[[円頂党|議会派]]と[[騎士党|王党派]]の対立が決定的になり議会から裁可を求められた[[民兵条例]]、[[19条提案]]を大権制限する内容のため拒否、8月にチャールズ1世は[[ノッティンガム]]で王旗を掲げ、ここに{{仮リンク|第一次イングランド内戦|en|First English Civil War}}が勃発した<ref name="松村136"></ref><ref>森(1986)、P409 - P410、今井、P192 - P197、塚田、P126 - P136、清水、P35 - P40、P43 - P51。</ref>。
 
=== 議会との全面戦争 ===