「宝亀の乱」の版間の差分

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乱の原因として『[[続日本紀]]』では、呰麻呂の個人的な怨恨を理由に挙げている{{refnest|group=原典|name=『続日本紀』宝亀十一年三月丁亥条}}{{sfn|鈴木 (2008)|p=116}}{{sfn|今泉 (2015)|pp=167-168}}。夷俘の出身である呰麻呂は、もともと事由があって紀広純を嫌っていたが、恨みを隠して媚び仕えていたために、紀広純の方では意に介さずに大いに信頼を置いていた。これに対し道嶋大楯は常日頃より呰麻呂を夷俘として侮辱していたために、呰麻呂がこれを深く恨んでいたとするものである{{sfn|鈴木 (2008)|p=116}}{{sfn|工藤 (2011)|p=131}}{{sfn|今泉 (2015)|pp=167-168}}。
 
もともと呰麻呂には政府に協力した功績を賞して、伊治公の[[カバネ|姓]]と、第二等の蝦夷爵の地位が与えられていたが{{refnest|group=原典|『続日本紀』宝亀九年六月庚子条}}、宝亀9年([[778年]])6月には、伊治城造営や俘軍を率いて戦った功績を賞して[[外位|外]][[従五位下]]という地方在住者としては最高の位が授けられている{{sfn|鈴木 (2008)|p=113}}{{sfn|工藤 (2011)|p=131}}{{sfn|今泉 (2015)|pp=163}}。このように政府に協力し、かつそれまでの功績を認められて地位を昇進させてきた呰麻呂にとって、つとに道嶋大楯から辱めを受けていたことは、耐えがたい屈辱であったと考えられる{{sfn|鈴木 (2008)|pp=116-117}}{{sfn|鈴木 (2016b)|p=18}}。
 
一方でこの乱は、呰麻呂個人の怨恨に帰結するものでなく、[[藤原仲麻呂]]政権以降、東北地方への進出を強め、現地住民との軋轢を増してきた政府の政策に対する、蝦夷側の反作用というべき性格も持っている{{sfn|工藤 (2011)|p=130}}。ただし反乱の舞台となった地域は完全に政府側の勢力が及んでいなかった地域でなく、首謀者の呰麻呂が受爵していたことからもわかる通り、ある程度政府の政治的・文化的な影響下にある地域であった。反乱は、それを踏まえた政府によるさらなる現地支配の強化に対しての抵抗と捉えられるものである{{sfn|工藤 (2011)|p=128}}。