「グリゴリー・ラスプーチン」の版間の差分

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=== 出生から帝都進出まで ===
[[File:Raspoutine et ses enfants.jpg|thumb|200px|ラスプーチンと子供たち]]
1869年1月9日、[[シベリア]]の寒村ポクロフスコエ村の農夫エフィム・ヤコブレヴィチ・ラスプーチンとその妻アンナ・パルシュコヴァの第5子として生まれる。翌10日に洗礼を受け、[[ニュッサのグレゴリオス]]から名前を授け、「グリゴリー」と名付けられた<ref>[[#Radzinsky2000|Radzinsky (2000)]], pp. 25, 29.</ref>。ラスプーチンは学校に通わなかったため読み書きが出来なかった(1897年のロシア政府の[[国勢調査]]によると、村人の大半が同様に読み書きが出来なかった)<ref>[[#Fuhrman|Fuhrmann]], p. 9.</ref>。幼少期のラスプーチンについて、娘の[[マリア・ラスプーチナ]]が記録を残しているが、彼女の記録は信頼性が低いと見なされている<ref>[[#Rasputin|Rasputin]].</ref>。
素行不良で粗暴な若者へ育ったグレゴリー青年はロシア正教会スコブツィ教派の教義<ref>「神に近づく最善の方法は犯した罪を告白し、悔い改める事」</ref>に傾倒、指導者としての頭角を表す。<!--失敗だらけの人類史・ナショナル・グラフィック-->幼少期のラスプーチンについて、娘の[[マリア・ラスプーチナ]]が記録を残しているが、彼女の記録は信頼性が低いと見なされている<ref>[[#Rasputin|Rasputin]].</ref>。
 
1887年にプラスコヴィア・フョードロヴナ・ドゥブロヴィナと結婚するが、1892年、唐突に父親や妻に「巡礼に出る」と言い残して村を出奔した<ref name="Nelipa, p. 16">[[#Nelipa|Nelipa]], p. 16.</ref>。一説では、野良仕事をしているとき[[生神女]][[聖母マリア|マリヤ]]の啓示を受けたといわれている。出奔後は{{仮リンク|ヴェルコチュヤ|en|Verkhoturye}}の修道院で数か月過ごしたが、その際に出会った{{仮リンク|ミハイル・ポリカロポフ|it|Makarij (monaco)}}に強い影響を受け禁酒し肉食を控えるようになり、村に戻って来た時には熱心な修行僧になっていた<ref>[[#Spiridovich|Spiridovich]], p. 15.</ref><ref>[[#Fuhrman|Fuhrmann]], p. 17</ref><ref>[[#Moynahan|Moynahan]], p. 31</ref>。