「山岡鉄舟」の版間の差分

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泥舟 (会話 | 投稿記録)
泥舟 (会話 | 投稿記録)
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;禅
:長徳寺願翁、竜沢寺星定、相国寺独園、天竜寺滴水、円覚寺洪川に参じ、後年は、滴水和尚から[[印可]]を与えられた。禅の弟子に[[三遊亭圓朝]]らがいる。また[[今北洪川]]、[[高橋泥舟]]らとともに、僧籍を持たぬ一般の人々の禅会として「両忘会」を創設した。両忘会はその後一時、活動停止状態となっていたが、[[釈宗演]]門下の釈宗活<ref group="注釈">釈宗活(しゃくそうかつ、1871 - 1954年)は臨済宗の僧侶。俗姓は入沢。別号に輟翁、両忘庵。</ref>の宗教両忘禅協会、釈宗活門下の立田英山<ref group="注釈">立田英山(たつたえいざん、1893 - 1979年)、耕雲庵を号す。1949年、宗教法人「両忘禅協会」を改組し宗教法人「人間禅教団」設立、初代総裁に就任。</ref>の[[人間禅|人間禅教団]]へと受け継がれた。
:禅の師であった天龍の滴水禅師は、山岡鉄舟のことを聞かれると「あれは別ものじゃ」と答えるのが常だったという。
;書
:人から頼まれれば断らずに書いたので各地で鉄舟の書が散見される。一説には生涯に100万枚書したとも言われている{{refnest|group="注釈"|鉄舟は亡くなる前年の明治20年から健康がすぐれず、勧告に従い「絶筆」と称して揮毫を断るようになったが、ただ全生庵を通して申し込まれる分については例外として引き受けた<ref>『最後のサムライ 山岡鐵舟』pp189-191</ref>。しかし、その「例外」分の揮毫だけでも8ヶ月間に10万1380枚という厖大な数にのぼった(受取書が残っている)。またその翌年の2月から7月まで、すなわち亡くなる直前まで、布団の上で剣術道場の建設のために扇子4万本の揮毫をした。鉄舟は、人が揮毫の謝礼を差し出すと「ありがとう」と言って快く受け取り、それをそのまま本箱に突っ込んでおいた。そして貧乏で困窮した者が助けを求めてくると、本箱から惜しげもなくお金を取り出して与えた。しばしばそういう場面を目撃した千葉立造が「先生は御揮毫の謝礼は全部人におやりになるのですか」と訊くと、鉄舟は「わたしはそもそも字を書いて礼をもらうつもりはないが、困った者にやりたく思って、くれればもらっているだけさ」と答えた。こんな具合だったので、鉄舟はずっと貧乏であった。なお千葉立造(ちばりつぞう、1844 - 1926年)は、鉄舟の侍医。立造は通称で名は顕親、愛石(あいせき)と号した。自伝として、千葉立造が口述し三男千葉真一が編纂・出版した『愛石小傳』 1917年 がある。}}。