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安政2年([[1855年]])に出獄を許されたが、杉家に幽閉の処分となる。
 
安政4年([[1857年]])に叔父が主宰していた[[松下村塾]]の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は[[久坂玄瑞]]、[[高杉晋作]]、[[伊藤博文]]、[[山縣有朋]]、[[吉田稔麿]]、[[入江九一]]、[[前原一誠]]、[[品川弥二郎]]、[[山田顕義]]、[[野村靖]]、[[渡辺蒿蔵]]、河北義次郎などの面々を教育していった<ref group="注">高杉と久坂を[[村塾の双璧]]、これに吉田、入江を加えて松門四天王などと称される。</ref>。なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる
なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる。
 
安政5年([[1858年]])、幕府が無勅許で[[日米修好通商条約]]を締結したことを知って激怒し、間部要撃策を提言する。間部要撃策とは、老中首座[[間部詮勝]]が[[孝明天皇]]への弁明の為に上洛するのをとらえて条約破棄と攘夷の実行を迫り、それが容れられなければ討ち取るという策である。松陰は計画を実行するため大砲などの武器弾薬の借用を藩に願い出るも拒絶される。次に伏見にて[[大原重徳]]と参勤交代で伏見を通る[[毛利敬親]]を待ち受け京に入る伏見要駕策への参加を計画。 しかし[[野村和作]]らを除く、久坂玄瑞、高杉晋作や[[木戸孝允|桂小五郎]]ら弟子の多くは伏見要駕策に反対もしくは自重を唱え松陰を失望させた。松陰は、間部要撃策や伏見要駕策における藩政府の対応に不信を抱くようになり[[草莽|草莽崛起論]]を唱えるようになる<ref>北海道大学大学院文学研究科 研究論集 第13号379ページ</ref>。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、長州藩に危険視され、再度、野山獄に幽囚される。