「落合博満」の版間の差分

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{{by|1991年}}2月、年俸を不服として日本人選手として初めて調停を申請。同年シーズンは前半戦に肉離れを起こし、大事を取り打撃三部門のトップに立った時点で1ヵ月程戦線離脱をした。結果、打率.340・37本塁打・91打点で本塁打王を獲得。打率は[[古田敦也]]に3毛差(古田.3398、落合.3395)<ref>{{Cite web|url=http://npb.jp/bis/yearly/centralleague_1991.html|title=年度別成績 1991年 セントラル・リーグ|publisher=日本野球機構|accessdate=2018-07-30}}</ref>、打点は[[広澤克実|広沢克己]]に8打点差で及ばず、それぞれリーグ2位だった。打率に関しては、最終戦で6打数5安打を記録し一度は首位打者の古田を逆転したものの、最後は古田が最終戦で1打数1安打を放ったことで、タイトル争いに敗れた。この過程で古田のいる[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]との最終戦では勝負を避けられ、1試合6四球の日本記録を作った。
加齢による速球対応を考慮し、このシーズン以降は自身の打撃フォーム(神主打法)では始動を早めるために、全盛期のようなバットを外側に置いて払うような構えではなく、内側に構えるケースが多くなった。
 
{{by|1992年}}、プロ野球選手会を脱退。6月に腰痛を発症した影響で打撃成績が下降した。最終的に22本塁打71打点の成績に終わり、1984年以来の獲得タイトルなしに終わったため、加齢による衰えが指摘され始めたシーズンとなった。
 
{{by|1993年}}5月7日の対横浜戦で史上初の両リーグ200本塁打を達成。同年オフ、導入されたばかりの[[フリーエージェント (日本プロ野球)|フリーエージェント]](FA)制度を行使してFAを宣言し、巨人に移籍した<ref>[http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/2011/12/21/post_101/ 【今日は何の日?】落合博満がFAで巨人に入団] - 『スポルティーバ 公式サイト』2011年12月21日付(1993年12月21日、落合が巨人へ入団した時のことをつづった記事)。{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref><ref>長嶋監督、[[渡邉恒雄]]以外のフロント・首脳陣は猛反対であるにも拘らず落合の巨人入りを強行させた。清原の巨人入りは落合からの進言。(『日本プロ野球トレード大鑑1936-2001』([[ベースボール・マガジン社]]、[[2001年]][[2月20日]]発行)より)</ref>。