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[[安土桃山時代]]に[[ポルトガル]]の[[宣教師]]によって西洋のパンが日本へ伝来した。天文12年(1543年)に種子島に漂着したポルトガル船により鉄砲の伝来と共にパンが伝わるが、その後キリシタン禁教令によりパンの製造も禁止され、出島で細々と伝承された<ref name=yamanashi>[http://yamanashi-pan.org/wp/history/history-pan/ 山梨のパンの歴史年表]山梨県パン協同組合</ref>。[[江戸時代]]に[[日本人]]が主食として食べたという[[記録]]はほとんど無い。一説には[[キリスト教]]と密着していたために製造が忌避されたともいわれ、また、当時の人々の[[口]]には合わなかったと思われる。江戸時代の料理書にパンの製法が著されているが、これは現在の[[中華人民共和国|中国]]における[[マントウ]]に近い製法であった。[[徳川幕府]]を訪れた[[オランダ]]からの使節団にもこの種のパンが提供されたとされる。
 
[[1718年]]発行の『御前菓子秘伝抄』には、酵母菌を使ったパンの製法が記載されている。酵母菌の種として[[甘酒]]を使うという本格的なものであるが、実際に製造されたという記録はない。最初にパン([[堅パン]])を焼いた日本人は江戸時代の末の[[江川英龍]]とされる。兵学に長けていた韮山の代官の江川は、戦場で飯を炊けば煙りが上がり敵に気付かれると考え、[[兵糧]]としてのパンの有用性に着目し、長崎の料理人を韮山に招き、[[1842年]][[4月12日]]に[[伊豆]]の[[韮山町]]の自宅でパン焼き[[かまど]]を作成し、パンの製造を開始した<ref name=yamanashi/>。このため、彼を日本のパン祖と呼ぶ<ref>「コムギの食文化を知る事典」p92 岡田哲 東京堂出版 平成13年7月15日初版発行</ref>。1855年に柴田方奄が長崎でパン、ビスケットの製法を習得して水戸藩に報告<ref name=yamanashi/>。1858年、横浜ホテルが誕生し、洋式のパンと料理を提供し、この頃各藩でも兵糧パンの製造を相次いで始める<ref name=yamanashi/>。1859年に欧米諸国との貿易が始まると、幕府は横浜に外国人の日用食料品街「お貸し長屋」を建て、日本人によるパンの販売が始まる<ref name=yamanashi/><ref>[http://www.sougoupan.or.jp/monument/ 近代のパン発祥の地 記念碑の設置]横浜市綜合パン・米飯協同組合</ref>。1865年には横浜製鉄所、横須賀造船所等の起工に伴って、フランス人技術者が多数来日しフランス式パン、ケーキが伝えられる<ref name=yamanashi/>。
 
[[明治時代]]に入ると[[文明開化]]の波のもとパンも本格的に日本に上陸するものの、[[米]]食志向の強い日本人には主食としてのパンは当初受け入れられなかった。この状況が変化するのは、[[1874年]]に[[木村屋總本店]]の[[木村安兵衛]]が[[あんパン]]を発明してからである。これは好評を博し、以後これに倣って次々と[[菓子パン]]が開発され、さらにその流れで[[惣菜パン]]も発達した。次いで、[[テオドール・ホフマン]]が桂弥一(軍人)にパン食を勧めて[[脚気]]が治り評判となり、脚気防止のためにパン食導入の流れができた。日本海軍では[[1890年]](明治23年)2月12日の「海軍糧食条例」の公布によっていち早くパン食が奨励されていた([[日本の脚気史#麦食縮小以降、脚気が増加する海軍|日本の脚気史]] 参照)。1901年には[[中村屋]]が創業、1905年に考案したクリームパンで成功する<ref name=pan100meijikoki/>。日露戦争、第一次世界大戦により軍用パン製造が盛んになり、パン業界が飛躍的に拡大する<ref name=pan100meijikoki>[http://www.panstory.jp/pdf/hen3.pdf 第三編 明治時代後期]『パンの明治百年史』パンの明治百年史刊行会、1970年</ref>。