「オーストリア皇帝」の版間の差分

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[[第一次世界大戦]]に敗れた後の[[1918年]][[11月11日]]、カール1世は国事行為の遂行を断念するという文書に署名し、[[シェーンブルン宮殿]]を退去した。新生の共和国はこれを[[退位]]とみなしたが、しかし当のカール1世には退位したつもりなど全くなく、ハプスブルク=ロートリンゲン家は依然としてオーストリア皇帝の称号を保持できると考えていた。カール1世は極めて敬虔な[[カトリック教会|カトリック]]信徒であったため、自らを廃位できるのは[[神]]のみであり人民にはその権利がないと[[王権神授説]]の観点から考えていたのである。
 
カール1世が1922年4月1日に崩御すると、皇后[[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ|ツィタ]]は長男[[オットー・フォン・ハプスブルク|オットー]]に「あなたは今、[[皇帝にして国王陛下|皇帝にして国王]](Kaiser und Könige)となったのです」と言った。オットーは母ツィタにとって1922年4月1日午後から新たな「オーストリア皇帝」だったし{{Sfn|グリセール=ペカール|p=300}}、同日夜からケルゼンブロック伯爵夫人によって召使いたちに「陛下」と呼ばれるようになった{{Sfn|グリセール=ペカール|p=300}}。亡命宮廷の人々のみならず、少なくともカトリックを奉じる正統主義的な[[王派]]の頭の中では、オットーの即位は正当なものとされた。
 
{{quotation|ウィーンの皇帝は[[ダビデ]]の王冠を戴き、危害を加えてはならない[[聖別]]された帝王であり、彼(=カール1世)を追放することは宗教的信条に逆らう宗教的不法行為であった{{Sfn|ファイグル|p=289}}。(中略)皇帝の冠は、表面しか見えない人たちにとっては見えなくなってしまった。[[ヨーゼフ・ロート]]はオットー・フォン・ハプスブルクを「見えない王冠を戴いた皇帝」と見ていた。今は多くの人間が、混乱の霧の中に隠れているものが見えるようになるまでには長い時間が必要であろう{{Sfn|ファイグル|p=289}}。|オーストリアの哲学者トーマス・シャイモヴィッツ}}