「日本プロサッカーリーグ」の版間の差分

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1980年代後半は、プロとアマチュアの選手が混在し、サッカー協会はプロ選手を認めているのにも関わらず、リーグはアマチュア、日本代表の試合もアマチュア基準に合わせるという歪な状態が続いた<ref name="ushiki20150719"/>{{sfnm|1a1=平塚|1pp=126-131|2a1=虹を掴む|2pp=84-89|3a1=75年史|3pp=258-260、268-273頁}}<ref>{{Cite book|和書|author=|year=2003|title=Jリーグ10年の軌跡 1993-2002 |chapter=三浦知良インタビュー|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|isbn=4-583-03775-9|pages=16-21}}</ref><ref>{{Cite web|author=[[二宮清純]]|date=2010-12-10|url=http://www.ninomiyasports.com/archives/12635|title=第127回 日本代表監督、こう選んだ<前編>|work=SPORT COMMUNICATIONS|publisher=|accessdate=2017-07-06}}</ref>。
 
このような流れを受け<!---<ref name="web-japan"/><ref name="naganuma"/><ref name="ogura"/>{{Sfn|平塚|pp=126-131}}--->、翌[[1988年]]3月にJSL総務主事・[[森健兒]]、JSL事務局長・[[木之本興三]]を中心として設置した「JSL第一次活性化委員会」{{Efn|「活性化委員会」の提唱は[[森健兒]]{{Sfn|Jリーグ群像|pp=9-37}}。設置時の名称は「JSL活性化委員会」である。現在これを「JSL第一次活性化委員会」と呼ぶのは、川淵が森の後、総務主事に就任し、森らに倣い再開させたものを「第二次活性化委員会」と名付けたため、森が総務主事だった時代に開催されたものを後に「"第一次"活性化委員会」と分けて呼ぶようになった<ref>{{Citation|和書|author=「フットボールサミット」議会|date=2010-11-19|title=フットボールサミット第1回|publisher=カンゼン|pages=172-179}}</ref>。「第一次活性化委員会」のメンバーは、森健兒、木之本興三の他、森と木之本が、[[石井義信]]、[[森孝慈]]、[[小倉純二]]、村田忠男([[日本サッカー協会|JFA]])、浅野誠也([[読売サッカークラブ|読売]])、[[杉山隆一]]、[[佐々木一樹]]<ref name="spnavi20120531"/> の7人を選んだ{{sfnm|1a1=Jリーグ創世記|1pp=154-158、170、356頁|2a1=虹を掴む|2pp=19-23}}。委員長には森健兒が就くのが自然だったが、森は名古屋転勤で忙し過ぎたためとバランスや企業説明を考え、森が小倉純二を委員長に指名した<ref name="ogura"/>{{sfnm|1a1=平塚|1pp=163-184|2a1=マネジメント|2pp=11-29|3a1=Jリーグ群像|3pp=9-37}}。「活性化委員会」は、短期間に6回の会合をもち、日本リーグの現状分析、他国のプロリーグの調査、日本にプロリーグをつくる可能性を模索した{{Sfn|75年史|pp=51-54}}。}}が、実質的な「Jリーグ」のスタートと見られる<ref name="web-japannaganuma"/><ref name="naganumaweb-japan"/><ref name="kawabuchi"/><ref name="tajima"/><ref name="kinomoto"/><ref name="ogura"/><ref>{{Cite web|url=http://blog.goo.ne.jp/s-ushiki/e/4a38903dc1f41e416813b967de6f9b91|title=戦後の学制改革とスポーツ|publisher=牛木素吉郎のビバ!スポーツ時評|accessdate=2013-05-10}}{{Cite book|和書|author=|year=1992|title=サッカーファン・ブック '92-'93|chapter=岡野俊一郎インタビュー|publisher=[[日本出版社]]|isbn=4-89048-317-9|pages=65-77}}『釜本邦茂 蹴球男塾(36))』 Jリーグ誕生編(2) [[デイリースポーツ]]、2011年11月30日6頁。</ref><ref name="sm9011">{{Cite journal|和書|url=http://www.vivasoccer.net/archives1966-2006/contents/1987.4-1992.12/199011-1-01.html|title=連載1 日本プロ・サッカーリーグのビジョンと問題点 川淵三郎氏 ―日本サッカー協会プロ準備検討委員長― に聞く プロ・リーグ設立の狙いと構想|journal=[[週刊サッカーマガジン]] 1990年11月号|chapter=|page=|year=|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]}}</ref>{{sfnm|1a1=平塚|1p=6、172頁|2a1=75年史|2pp=51-53、258-260頁|3a1=時代の証言者|3pp=52-54|4a1=日本サッカー狂会|4pp=128-132|5a1=Jリーグ創造記|5pp=69-73|6a1=日本サッカー史|6pp=240-241|7a1=Jリーグ群像|7pp=9-37<!---|8a1=Jリーグの経済学|8pp=16-19--->。}}。Jリーグ公式サイトの「Jリーグの歴史」でも、この1988年3月「JSL第一次活性化委員会」設置をその始まりに置いている<ref name="j-history">[http://www.jleague.jp/aboutj/history/ Jリーグの歴史] Jリーグ</ref>。『[[サッカー批評]]』は「JSL第一次活性化委員会」を"実質的なプロ化検討委員会の創設"と評している<ref name="批評56_100">{{Cite book|和書|author=|year=2012|title=[[サッカー批評]]issue56|chapter=木之本興三の提言 初心 第2節|volume=|publisher=[[双葉社]]|pages=100-101}}</ref>。「JSL第一次活性化委員会」は、6回目の1988年7月21日に、森が「現状改革を進めながら、トップリーグを商業ベースによる事業化を志向した『スペシャルリーグ』<ref name="kawabuchi"/>(プロリーグ)にすることを検討する」という結論を出し、最終報告書をまとめて日本サッカー協会の理事会に提出した<ref name="spnavi20120531"/>{{sfnm|1a1=平塚|1p=184|2a1=75年史|2pp=259-260|3a1=日本サッカー狂会|3pp=128-132|4a1=Jリーグ創世記|4pp=154-158、170、356頁|5a1=Jリーグ群像|5pp=9-37}}{{Efn|この10ヵ月後にまとめられた「第二次活性化委員会」の報告書もこれを踏襲し、これがほとんどそのままJリーグの骨格となる{{Sfn|平塚|p=184}}。}}。1988年8月に森の後任として[[川淵三郎]]がJSL総務主事となり<ref name="kawabuchi"/><ref name="kinomoto"/><ref name="sm9011"/>、同年10月に川淵が「JSL第二次活性化委員会」{{Efn|「第二次活性化委員会」のメンバーは、森健兒、木之本興三を含む、「第一次活性化委員会」と同じメンバー9人と、プロ化に乗り気でないチームの実行委員・阿部豊([[日本鋼管サッカー部|NKK]])、有村宏三郎([[ヤンマーディーゼルサッカー部|ヤンマー]])、泉信一郎([[全日空横浜サッカークラブ|全日空]])に、川淵を加えた13人で{{sfnm|1a1=平塚|1pp=190-197|2a1=虹を掴む|2pp=84-89}}、「第二次活性化委員会」でも委員長には引き続き川淵が小倉純二を指名した<ref name="ogura"/>{{sfnm|1a1=平塚|1pp=190-197|2a1=マネジメント|2pp=31-32}}。「第二次活性化委員会」は「第一次活性化委員会」が出した結論をさらに検討させた<ref name="ogura"/>{{Sfn|75年史|pp=258-260}}。川淵は、当時の日本リーグのレベルが低いばかりでなく、アンフェアなプレーが横行していたこともあり、当初はリーグのプロ化には反対だった{{Sfn|75年史|pp=258-260}}。しかし「活性化委員会の真剣な議論に参加しているうちに、根本的な改革が必要であることを思い知り"失うものは何もない"とプロ化推進に傾いていった{{Sfn|75年史|pp=258-260}}。「第二次活性化委員会」は1988年10月3日から翌1989年3月13日まで8回の会合を開き「1992年スペシャルリーグ・スタート」という提案を出して解散、以後の検討をJFAの「プロリーグ検討委員会」に委ねた{{Sfn|75年史|pp=258-260}}。}}を設置<ref name="kawabuchi"/><ref name="j-history"/><!---川淵らが中心となって[[国立霞ヶ丘陸上競技場]]で開催する[[1989年]][[2月26日]]のJSLの後期リーグ開幕戦を無料招待試合し満員にする計画を立てたが<ref name="sponichi201410"/>{{sfnm|1a1=平塚|1pp=163-192|2a1=日本サッカー狂会|2pp=128-132}}、半分の入りで落胆し、それまでプロ化に懐疑的だった川淵自身が「俺自身が意識を変えないといけない」と決意するに至った<ref name="kawabuchi"/><ref>{{Citation|和書|title=週刊サッカーマガジン 別冊 春季号「まるごとJリーグ完全版〜栄光の記憶15年〜」|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|page=115}}</ref>。--->。サッカー協会内部では“JSLの活性化”では意見が一致し、[[長沼健]]や[[岡野俊一郎]]ら幹部の中には本音ではリーグをプロ化したいと考える者もいたが{{Sfn|Jリーグ創造記|pp=69-72}}、[[ペレ]]のいた[[北米サッカーリーグ|北米リーグ]]が失敗した例もあり{{sfnm|1a1=平塚|1pp=141-150|2a1=時代の証言者|2pp=52-54}}、まだまだ“リーグのプロ化”に対しては親会社から出向してきた当時の1部リーグに所属する実業団チーム出身の役員達を中心に「プロ化は時期尚早」や「プロ野球の球団ですら赤字経営なのに、サッカーではまともに採算が取れる訳がない」などの意見が「JSL評議委員会」{{Efn|「JSL評議委員会」は、JSLの最高議決機関。主に加盟チームが自ら選出した評議員で構成されていた。親会社で立場のある取締役クラスの人が選出されることが多く、会社の意向を尊重する傾向があった<ref name="kawabuchi"/>。「第一次活性化委員会」~「第二次活性化委員会」のメンバーは、各チームを実質的に切り回していた人たちではあったが、親会社に戻れば会社の経営方針に直接タッチできる役職には就いていなかった{{Sfn|虹を掴む|pp=84-89}}。「JSL評議委員会」の議長は[[日産自動車]]副社長の細川泰嗣。他のメンバーも各チームの代表者であり、親会社での地位は「活性化委員会」のメンバーよりはるかに上だった{{Sfn|虹を掴む|pp=84-89}}。}}で大勢を占めた<ref>{{Citation|和書|title=[[週刊サッカーマガジン]] 別冊 春季号「まるごとJリーグ完全版〜栄光の記憶15年〜」|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|page=116}}</ref>{{sfn|日本サッカーは|pp=220-222}}。実業団チームのほとんどは、サッカーを[[福利厚生]]の一環と考え「プロ」という言葉に反発を感じる人は少なくなかった<ref name="sm9011"/>。川淵は「活性化委員会」の議論をJSLではなく、日本サッカー協会(JFA)に移さなければ何も始まらないと判断し<ref name="kawabuchi"/>{{sfnm|1a1=マネジメント|1pp=32-35|2a1=虹を掴む|2pp=84-89|3a1=Jリーグ群像|3pp=9-37}}、翌[[1989年]] 6月に「JSL第二次活性化委員会」を解散させ、日本サッカー協会の副会長になっていた[[長沼健]]に要請し<ref name="naganuma"/><ref name="kawabuchi"/><ref name="sm9011"/>{{sfnm|1a1=マネジメント|1pp=32-35|2a1=虹を掴む|2pp=84-89|3a1=75年史|3pp=51-54}}、JFA内に「プロリーグ検討委員会」{{Efn|JFA内に「プロ対策本部」(本部長は長沼健)が作られ{{Sfn|75年史|pp=51-54}}<ref name="sm9011"/>、1990年10月、その中に「プロリーグ検討委員会」(委員長は川淵三郎)が設置された<ref name="sm9011"/>。「プロリーグ検討委員会」は1991年1月まで6回の会合を重ね、リーグ参加条件の決定、当該団体への参加意思確認とヒアリング、アドバイザーボードの開催などを行う<ref name="sm9011"/>{{Sfn|75年史|pp=258-260}}<ref>[http://t.pia.jp/feature/sports/japan-soccer/080514index.jsp チケットぴあ/JAPANサッカーを支える企業第23回 株式会社スポーツ21エンタープライズ 代表取締役 三ッ谷洋子]</ref>。}}が設置された<ref name="kawabuchi"/><ref name="j-history"/>{{Sfn|75年史|pp=258-260}}<ref>[http://www.jfa.jp/about_jfa/history/#1990 沿革・歴史JFA|公益財団法人日本サッカー協会]</ref>。保守的な日本サッカー協会理事会の承認を得るために「検討」という文字が付いていたが、実際には関係者の間では、既にプロリーグの発足は既定の方針として固まっていた{{sfn|日本サッカー史|pp=240-241}}。やりようによってはプロリーグが出来るという段階まで来たのはこの「プロリーグ検討委員会」が設置されたときである{{Sfn|75年史|pp=51-54}}。プロリーグ構想は具現化され<ref name="kawabuchi"/>{{Sfn|平塚|pp=196-197}}、1991年7月1日、新プロリーグの正式名称を「日本プロサッカーリーグ」とし、愛称を「Jリーグ」とすることを発表{{Sfn|75年史|pp=258-260}}、日本初のプロサッカーリーグの「'''日本プロサッカーリーグ'''」(Jリーグ)が発足した{{Efn|1991年11月1日、新リーグが「社団法人日本プロサッカーリーグ」として法人化されることが決定した<ref name="j-history"/>{{sfnm|1a1=75年史|1pp=258-260|2a1=プロ制度構築|2pp=27-32}}。}}。「Jリーグ」という呼称は、[[博報堂]]が提出した複数の案{{Efn|「Jリーグ」という名称の提案は、当初 Jipang League(ジパング・リーグ)の略称として提案された{{Sfn|プロ制度構築|pp=27-32}}。}}の中から川淵が気に入り採用に至ったもの<ref name="spnavi20120531"/>{{Sfn|マネジメント|pp=55-58}}<ref>{{Cite book|和書|author=[[烏賀陽弘道]]|year=2005|title=Jポップとは何か|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4-00-430945-1|page=23}}</ref>。博報堂は「釜本のポスター」からJSLと接点を持っていたが<ref name="digest2007220" />{{sfnm|1a1=マネジメント|1pp=35-37|2a1=Jリーグの経済学|2pp=19-21}}、当時は会社のビジネスではなく、個人のネットワークを生かした手伝い程度の物で<ref name="digest2007220" />、[[電通]]が[[ペレ]]の引退興行を始め{{Sfn|濱口|pp=57-80}}、サッカー協会に深く入り込んでいて入る余地はなかった{{sfnm|1a1=Jリーグの経済学|1pp=19-211|2a1=濱口|2pp=57-80}}。しかしプロサッカーリーグに関しては電通は「実現性が乏しい」と判断していたといわれる{{sfnm|1a1=マネジメント|1pp=35-37|2a1=虹を掴む|2pp=35-38}}。Jリーグを博報堂が手掛けることになったのは長沼副会長からのリンクといわれる<ref>[https://web.archive.org/web/20080608185315/http://www.sports-soken.com/blog/archives/2008/06/post_317.html 長沼健さん、ご逝去 (スポーツ総合研究所 広瀬一郎Blog) ](Internet Archive)</ref>。
 
[[1986年]]6月の[[1986 FIFAワールドカップ|メキシコワールドカップ]]開催中の会見で<ref name="ogura"/>{{Sfn|平塚|pp=167-169}}、[[FIFA]]の第7代会長・[[ジョアン・アヴェランジェ]]から、[[1998 FIFAワールドカップ|1998年]]か[[2002 FIFAワールドカップ|2002年]]をアジアでの[[FIFAワールドカップ]]最初の開催地として日本が念頭にあるような示唆を得て<ref name="ogura"/>{{sfnm|1a1=平塚|1pp=167-169|2a1=田崎|2pp=143-148|3a1=濱口|3pp=109-118|4a1=仮野|4pp=58-63}}、1989年11月、正式にFIFAに[[2002 FIFAワールドカップ]]日本開催の意思を伝える<ref name="ogura"/>{{sfn|時代の証言者|pp=52-54}}。日本がワールドカップを開催するにふさわしい国であることを証明するためにも、FIFAの要求を満たすスタジアムの建設などの他、日本代表のワールドカップ初出場を念頭に置いた強化{{Efn|未出場の国がワールドカップのホスト国となった先例はなかった。}}とそれに伴うプロリーグ創設、成功が不可欠となった<ref name="ogura"/>{{sfnm|1a1=平塚|1pp=167-169|2a1=75年史|2pp=18-19、51-54頁|3a1=濱口|3pp=109-118}}<ref name="toyokeizai64342">[http://toyokeizai.net/articles/-/64342 セルジオ越後が、日本サッカーをなで斬り! | スポーツ | 東洋経済オンライン]</ref>。ワールドカップは[[近代オリンピック|オリンピック]]とは違い、全国展開のため、拠点拠点にFIFAの要求を満たすスタジアムを造らねばならず{{Sfn|75年史|pp=51-54}}<!---<ref name="ogura"/><ref>{{cite book|和書|author=[[後藤健生]]|year=2010|title=ワールドカップは誰のものか―FIFAの戦略と政略|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=978-4-16-660754-9|pages=67-70}}</ref>--->、ワールドカップの招致とプロリーグ創設を結び付けた<ref name="ogura"/>{{sfnm|1a1=75年史|1pp=51-54|2a1=仮野|2pp=58-63}}<ref name="sm9011"/>。サッカー協会内の慎重論から川淵らを後押しした長沼は<ref name="kawabuchi"/>{{sfnm|1a1=時代の証言者|1pp=52-54|2a1=75年史|2pp=51-54}}、「プロリーグの成功とワールドカップ誘致は、車の車輪であると認識した。同時並行で推進しなければ、片方がつまずけば両方ころぶ。幸い[[バブル景気|バブル経済]]の余韻が残っていた時期に、Jリーグのスタートが間に合った」と述べている{{sfn|時代の証言者|pp=52-54}}。また、あれほど弱かった日本代表が、Jリーグ開始前に突然強くなったこともJリーグ人気を後押しした<ref name="ramos"/><ref name="kirinsoccermemory"/>{{sfnm|1a1=75年史|1p=261-262|2a1=Jリーグの経済学|2pp=36-39|3a1=濱口|3pp=118-120}}<ref>{{Cite web|author=飯尾篤|date=2013-10-27|url=http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/jfootball/2013/10/27/20_7/index3.php|title=福田正博 「20年前のドーハは『悲劇』じゃない」|work=Web Sportiva|publisher=[[集英社]]|accessdate=2017-07-06}}{{Cite web|author=[[植田朝日]] |url=https://number.bunshun.jp/articles/-/830846 |title=サッカー日本代表 激闘日誌 植田朝日にとってのサッカー日本代表 |website=[[Sports Graphic Number|Number Web]] |publisher=[[文藝春秋|文藝春秋社]] |date=2018-5-30 |accessdate=2018-11-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181119144212/https://number.bunshun.jp/articles/-/830846 |archivedate=2018-11-19 }}</ref>。Jリーグが創設されると川淵が[[Jリーグチェアマン]]として、日本代表の強化委員長としてマスメディアに盛んに露出し脚光を浴びたため、Jリーグは川淵が作ったかのようにイメージが付いた<ref name="kawabuchi"/><ref name="kinomoto"/><ref name="sanspo2017116">{{Cite news|title=一時は“余命5年”の宣告、両足を日本サッカー界に捧げた木之本興三氏が死去|url=http://www.sanspo.com/soccer/news/20170116/jle17011623070014-n1.html|date=2017-01-18|newspaper=[[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]]|publisher=[[産業経済新聞社]]|accessdate=2017-07-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170701030022/http://www.sanspo.com/soccer/news/20170116/jle17011623070014-n1.html|archivedate=2017-07-01}}</ref><ref>[http://globis.jp/article/4386 「リーダー」としての極意と覚悟~川淵三郎氏 | GLOBIS 知見録 - 視る]</ref>。プロリーグの創設は、日本のサッカーを盛んにしたい、強くしたいという多くの人たちの長年の仕事の積み上げにより作られたものではあるが<ref name="ramos"/><ref name="ushiki20150719"/><ref name="diamond2017113">{{cite web |title=川崎F・中村憲剛選手とYBC・飯島茂彰社長、ルヴァン杯が結ぶ「接点」【対談】飯島茂彰(ヤマザキビスケット社長)×中村憲剛(川崎フロンターレ選手) |author=|work=[[週刊ダイヤモンド|ダイヤモンド・オンライン]] |publisher=[[ダイヤモンド社]] |date=2017-11-3 |url=http://diamond.jp/articles/-/7742 |accessdate=2019-1-3 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20171121114628/https://diamond.jp/articles/-/148114?page=3 |archivedate=2017-11-21 }}</ref>、最後の一歩は川淵のバイタリティ、強引さが大きな原動力になったのは事実ではある<!-- <ref>{{Cite web|author=|date=2015-4-23|url=http://www.cyzo.com/2015/04/post_21613_entry.html|title=武田修宏「Jリーグ批判」に見る、物言えぬチェアマンと“無責任”幹部の暴走ぶり|work=[[サイゾー|日刊サイゾー]]|publisher=株式会社サイゾー|accessdate=2017-07-06}}</ref> -->{{出典無効|date=2017年7月}}。しかし、[[森健兒]]と[[木之本興三]]は、不毛状態が続いた[[日本サッカーリーグ]]時代から長きに渡りプロ化を考え、その運営に携わっていて<ref name="kinomoto"/><ref name="批評56_100"/>{{sfnm|1a1=平塚|1pp=61-63、108-113、124-131|2a1=虹を掴む|2pp=60-65、75-77|3a1=Jリーグ群像|3pp=9-37}}<ref name="gendai2006_1112">{{Cite book|和書|author=|date=2006年11月21日~12月18日|title=[[日刊ゲンダイ]]|chapter=連載 木之本興三 Jリーグへの遺言(全20回)|volume=|publisher=株式会社日刊現代|page=}}</ref>、川淵は日本サッカーに絶望し<!---<ref>{{Cite book|和書|author=|date=2006-11-29|title=日刊ゲンダイ|chapter=連載 木之本興三 Jリーグへの遺言(6)|volume=|publisher=株式会社日刊現代|page=32}}</ref>--->、一時サッカー界から離れていた時期があり{{sfnm|1a1=平塚|1pp=190-191|2a1=虹を掴む|2pp=19-23}}<ref>{{Cite book|和書|author=|date=2006-11-28|title=日刊ゲンダイ|chapter=連載 木之本興三 Jリーグへの遺言(5)|volume=|publisher=株式会社日刊現代|page=39}}{{Cite book|和書|author=|date=2006-11-29|title=日刊ゲンダイ|chapter=連載 木之本興三 Jリーグへの遺言(6)|volume=|publisher=株式会社日刊現代|page=32}}</ref>、後から入って来た川淵に手柄を取られたようで面白くなかった{{Sfn|日本サッカー狂会|pp=128-132}}。川淵は最初にプロリーグの話を聞いたときも「バカじゃないか」と思ったと話しており{{Sfn|Jリーグの経済学|pp=16-19}}、森の後任でJSL総務主事に抜擢された際も、木之本から「プロ化する気持ちがないなら来ないで」と言われたほどで<ref>{{Cite book|和書|author=|date=2006-11-28|title=日刊ゲンダイ|chapter=連載 木之本興三 Jリーグへの遺言(5)|volume=|publisher=株式会社日刊現代|page=39}}</ref>、木之本は「川淵さんのJSL総務主事就任前にプロ化の道筋はすでに出来上がっていた」<ref>{{Cite book|和書|author=|date=2006-12-8|title=日刊ゲンダイ|chapter=連載 木之本興三 Jリーグへの遺言(13)|volume=|publisher=株式会社日刊現代|page=35}}</ref>、森は「プロ化の道筋をつけてから川淵さんにバトンタッチした」と述べている<ref>{{Cite book|和書|author=|date=2007-4-24|title=日刊ゲンダイ|chapter=連載 森健兒 いま沈黙を破る(11)|volume=|publisher=株式会社日刊現代|page=31}}</ref>。特に木之本にとって川淵は[[古河電気工業サッカー部|古河電工]]でのかつての上司でもあり、当初の関係は悪くはなかったが<ref name="gendai2006_1112"/>、[[2002 FIFAワールドカップ]]後、[[読売新聞]]に次期[[Jリーグチェアマン|チェアマン]]候補として木之本の名前が出ると、急に木之本と川淵の関係が悪くなった<ref name="kinomoto"/>。川淵の後任チェアマンには[[鈴木昌 (経営者)|鈴木昌]]が就任したが、木之本は公平な立場でなければならないチェアマンにクラブ出身の社長はまだ早いと反対したら、鈴木と川淵からJリーグ専務理事・JFA常任理事と、<!---不明瞭な給与取得をしたと<ref name="kinomoto"/><ref name="gendai2006_1112"/>--->Jリーグ映像他、Jリーグ関連の子会社の社長を解雇され、Jリーグ及びJFAから追い出された<ref name="kinomoto"/><ref name="toyokeizai64342"/><ref name="sanspo2017116"/>。森、木之本の二人と川淵の間に確執が生まれ<ref name="kinomoto"/>、この恨みからか『[[日刊ゲンダイ]]』などのマスメディアで川淵を批判した<ref name="mori"/><ref name="kinomoto"/><ref name="gendai2006_1112"/><ref>{{Cite book|和書|author=|date=2007年4月10日~4月28日|title=日刊ゲンダイ|chapter=連載 森健兒 いま沈黙を破る(全15回)|volume=|publisher=株式会社日刊現代|page=}}{{Cite book|和書|author=|date=2006年11月21日~12月18日|title=[[日刊ゲンダイ]]|chapter=連載 木之本興三 Jリーグへの遺言(全20回)|volume=|publisher=株式会社日刊現代|page=}}{{Cite book|和書|author=|year=2007-7-2|title=日刊ゲンダイ|chapter=木之本興三 月刊サッカー通信(6)|volume=|publisher=株式会社日刊現代|page=33}}</ref>。
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|(株)ブラウブリッツ秋田
|J3
|[[秋田県]] / [[秋田市]]他4市<ref group="注釈">[[秋田市]]、[[由利本荘市]]、[[にかほ市]]、[[男鹿市]]</ref> を中心とする全県<br />([[秋田市八橋運動公園球技場|あきぎんスタジアム]])
| style="text-align:center" |2014年||style="text-align:center"|2013年
|-
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|(株)フットボールクラブ水戸ホーリーホック
|J2
|茨城県 / [[水戸市]]ほか5市3町1村<ref group="注釈">[[水戸市]]、[[ひたちなか市]]、[[笠間市]]、[[那珂市]]、[[小美玉市]]、[[茨城町]]、[[城里町]]、[[大洗町]]、[[東海村]]</ref> を中心とする全県<br />([[水戸市立競技場|ケーズデンキスタジアム水戸]])||style="text-align:center"|2000年||
|-
|[[栃木SC]]<br />''TOCHIGI SC''
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|(株)SC鳥取
|J3
|[[鳥取県]] / [[鳥取市]]他4市<ref group="注釈">鳥取市、[[倉吉市]]、[[米子市]]、[[境港市]]</ref> を中心とする全県<br />([[鳥取市営サッカー場|とりぎんバードスタジアム]])
| style="text-align:center" |2011年||style="text-align:center"|2007年
|-
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|- style="background-color:#f0f0f0"
!53
|style="text-align:center"|[[いわてグルージャ盛岡|盛岡]]<br />J3
|[[盛岡南公園球技場|いわスタ]]<br />([[盛岡市]])
|4,946
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;全ディビジョン共通
*オフィシャルパートナーの広告設置に関しては、Jリーグ規約<ref name="Jリーグ規約">{{PDFlink|[http://www.j-league.or.jp/aboutj/document/2014kiyakukitei/02.pdf J リーグ規約(平成26年1月21日改正)]}} - 日本プロサッカーリーグ</ref> 第35条(27ページ)に「スタジアムにはJリーグが指定する位置にJリーグ、並びにJリーグオフィシャルパートナーの企業・団体が所定サイズ・及び枚数の広告[[看板]]([[幕]])を設置・掲出できるスペースを確保しなければならない」とする取り決めによるものである。
*[[日本スポーツ振興センター]](toto・BIG、[[2001年]]より)、[[朝日新聞社]]([[2003年]]より)、[[パフォーム・グループ|パフォーム・インベストメント]]([[パフォーム・グループ #DAZN|DAZN]]、[[2017年]]より)のトップパートナー<ref group="注釈" name="トップパートナー">2011年までのオフィシャルスポンサーに当たるリーグ戦最上位スポンサーカテゴリー(なお2015年度からは明治安田生命保険がJリーグ全体のタイトルパートナー(特別協賛)に就任するため、スポンサーカテゴリーとしてはタイトルパートナーが最上級、トップパートナーはその次のクラスに当たる)。</ref> 以外の形でリーグ戦を協賛する企業の広告横断幕が基本的にバックスタンドの最前列の箇所に設置されている<ref group="注釈" name="J3">J3に関しては2014年度にJ3独自のオフィシャルパートナーがあった名残で、日本スポーツ振興センター、スカパーJSAT、アディダスジャパンの広告はバックスタンド最前列に2枚ずつ張り付けてある</ref>。なお一部のスポンサーは[[Jリーグカップ]]にも広告看板を掲出する場合<ref group="注釈">2014年予選ではコカコーラ、コナミ(ウィニングイレブン)、東京エレクトロンの3社。</ref> もある。
*2008年から2013年まで、メインスタンドから見て左側(原則としてホームゴール裏)にオフィシャルサプライヤー([[コンタクトレンズ]]等提供)の[[ジョンソン・エンド・ジョンソン]]の小型広告が設置されていた。
*2015年度より、Jリーグ全体(J3含む)の「トップパートナー」よりさらに最上級のスポンサーカテゴリーとして「タイトルパートナー」が制定され、明治安田生命保険が就任することになり<ref name="タイトルパートナー"/>、リーグの正式な名称が「明治安田生命J(1・2・3)リーグ」となった。
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||2005年|| style="text-align:left" |[[アディダス]]<ref group="注釈" name="J3_2014" />
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|オフィシャルブロードキャスティングパートナー||2017年|| style="text-align:left" |[[パフォーム・グループ|パフォーム・インベストメント]]([[パフォーム・グループ #DAZN|DAZN]])<ref name="smart stadium"/><ref>{{Cite press release|url=http://www.jleague.jp/release/post-47842/|title=Jリーグオフィシャルブロードキャスティングパートナー決定|publisher=公益社団法人日本プロサッカーリーグ|date=2017-01-25|accessdate=2017-01-29}}</ref>
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|スポーツ振興パートナー||2001年|| style="text-align:left" |[[日本スポーツ振興センター]]<br />([[スポーツ振興くじ|スポーツくじ]]<toto・BIG>)