削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
25行目:
呉の中央市場の取締り役を任されたときは、市場で盗難や殺人がなくなった。これにより評判を高め、豫章郡の[[衢江区|西安]][[県長]]となった。当時、[[荊州]]の[[劉表]]配下の者達が幾度か略奪を働いていたが、潘璋の着任後は侵攻が止み静まり返った。また、隣の建昌で反乱が起きると、任地を建昌に移され、武猛[[校尉]]を加えられた。1ヶ月で反乱を鎮圧し、散逸した民を集め、兵士を8百人ほど増やし[[建業]]に帰還した。
 
[[215年]]、[[合肥の戦い]]では[[曹操]]軍の[[張遼]]が急襲する前に[[陳武]]が戦死し、[[宋謙]]や[[徐盛]]の軍も敗れ兵士が逃げ出そうとすると、この余りに苛烈な攻撃に、孫権軍の先部隊はすっかり意気消沈し、潘璋は後方から馬を駆って前線に赴き、逃亡する宋謙や徐盛の部下を二名ほど斬ったので逃亡していた兵は取って返してこれと戦ったが、戦線の崩壊を防いだ。これを見た孫権は潘璋の現場判断力を見て高く評価、この功績が孫権に認められ偏将軍となり、百校の任務を任され、半州に駐屯した。
 
[[219年]]の[[関羽]]討伐では、[[朱然]]とともに関羽の退路を断つ任務を受け、臨沮へ赴き夾石へ軍を進めた。部下の[[馬忠 (孫呉)|馬忠]]が関羽・[[関平]]・[[趙累]]を生け捕りにする功績を挙げたため、宜都郡より巫・秭帰の2県を分割して新設された固陵[[太守]]を任され、さらに振威将軍・溧陽侯となった。