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足利将軍家に仕えていた女房は、奉公衆・奉行衆の特定の家から出されて同じ名乗りをもって将軍に仕えることが多く、摂津氏では「左京大夫局」「左衛門督局」を名乗った後に「春日局」と称するのが慣例となっていた。また、「宮内卿局」は春日部赤松家([[赤松貞範]]の子孫)に由来し、その後も[[赤松氏]]一族出身の女性に引き継がれた<ref>設楽、2017年、P148-152</ref>。また、[[大舘持房]]の娘で[[足利義政]]の側室に取り立てられた[[大舘佐子|佐子]](陽西院)の「佐子」も名ではなく女房名であったとされる。このため、同じように「佐子局」は[[大舘氏]]出身の女房の名前と考えられ、晴員の姉である佐子局も事情があって大舘氏の養女になって将軍家に仕えたと推定されている<ref name=sitara153>設楽、2017年、P153-154</ref>。
 
三淵晴員が[[明応]]9年(1500年)生まれ(足利義晴より11歳年長)であるため、佐子局はそれより年長である事から、義晴の側室ではなく養育係の1人であったと推定される<ref name=sitara156>設楽、2017年、P156-157</ref>。当時、[[足利義澄]]・義晴父子と[[足利義稙]]の間で将軍の地位を巡る争いを繰り広げており、義晴も[[播磨国]]の赤松氏の下で成長した。このため、幕臣のみならず、女房の間でも義澄派と義材派に分かれていたとみられ、[[細川元常]](晴員の実兄)・三淵晴員・[[大舘常興]]はいずれも義澄派であったこと、三淵氏が播磨国[[印南郡]]に所領を有していたことから、晴員・佐子局は義稙政権時には義晴と共に播磨国に下っていたとみられる<ref name=sitara164>設楽、2017年、P160-164</ref>。その後、[[永正]]18年(1521年)に義晴が上洛して11歳で将軍に就任して以降、小上臈と呼ばれる地位にあった<ref name=sitara148>設楽、2017年、P148</ref>。
 
義晴の将軍就任以降、晴員と佐子局が記録上に登場するようになる。佐子局の記録上の初出は『尚通公記』[[大永]]3年(1523年)正月16日条で、以降幼少の義晴に近侍して諸事の取次を務め、仮名書きの奉書や御内書の添状を発給している(なお、同記の同月5日条が三淵晴員の記録上の初出にあたる<ref name=sitara162>設楽、2017年、P162</ref>)。また、天文5年(1536年)の内談衆の結成にも関わり(『大舘常興日記』天文8年12月5日条)、義晴の政務全般に影響を及ぼしていた<ref name=sitara155>設楽、2017年、P155-156</ref>。その後、義晴が近衛家から正室を迎えたのを機に、天文3年(1534年)11月に隠退して八瀬に居を構えたが、その後も政務に関与している<ref>設楽、2017年、P156</ref>。