「パーソナルコンピュータ史」の版間の差分

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[[File:Macintosh 128k transparency.png|thumb|160px|right|[[Macintosh 128K]](1988年ころ)]]
一方、アップルが1980年[[5月]]に満を持して投入した[[Apple III]] (Apple3) はApple IIとの互換性が完全ではなかった上に品質上の問題も抱え、市場で受け入れられることなく失敗する。Apple IIIに見切りをつけたアップルは、[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]と[[マルチタスク]]を備えた[[Lisa (コンピュータ)|Lisa]]を [[1983年]]に発売し注目を集めるが、これも高価すぎて営業的には失敗に終わる。その後、より安価な[[Macintosh]]を[[1984年]]に発売するとようやく一定の成功を収めた。しかしApple IIで互換機メーカーにシェアを奪われる苦汁をなめたことからクローズドアーキテクチャにした。当然、互換機という敵はなかった。一時は様々な思惑のもとに[[Macintosh互換機]]事業を開始したが、その時点で既にPC/AT互換機が業界標準となりつつあったため、パーソナルコンピュータ全体の中でのシェアは期待ほど伸びず、逆に互換機メーカーとMacintosh互換機市場を食い合う結果となった<ref>{{Cite journal|和書|author=柴田文彦|year=1998|title=国産銘機列伝:History「Macintosh、矛盾のなかの魅力」|journal=ASCII|volume=22|issue=9|pages=322-323|publisher=アスキー}}</ref>。最終的にアップルは互換機ビジネスを中止してクローズドアーキテクチャに回帰し、パーソナルコンピュータ全体の中でのシェア争いは放棄し、アップルとしての利益を確実に確保することを選択した。
 
[[1980年代]]から高機能端末として[[ワークステーション]]が発達してきていたが、[[1990年代]]、パーソナルコンピュータの[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]機能が充実し、フル機能の[[UNIX]]が動作するようになってワークステーションとパーソナルコンピュータとの境界は曖昧になった。[[2000年代]]、Macintoshの[[オペレーティングシステム|OS]]はUNIXベースの[[macOS|Mac OS X]]へと移行し、またPC/AT互換機のOSもUNIX同等の機能を持った[[Windows NT系]]へと移行した。
 
1990年代末には、パーソナルコンピュータ市場は多数のメーカーによるPC/AT互換機と[[Microsoft Windows|Windows]]の組み合わせ ([[Wintel]]) がほぼ支配するようになった。だが、[[コモディティ化]]が進みメーカーによる差別化が困難となったPC市場では、[[デル]]など低価格で製造するメーカーがいくつも乱立、過当競争によって各メーカーは利益率が著しく低下し経営内容は悪化、市場からの撤退や[[合併]]・[[買収]]など、再編が相次いだ。PCのオリジナルであるIBM PCを開発・販売した[[IBM]]も、パーソナルコンピュータ事業の業績不振から、[[2004年]]12月にパーソナルコンピュータ事業を[[中華人民共和国|中国]]のレノボ・グループ([[聯想集団]])に売却すると発表した。ハードウエアのオープンアーキテクチャ化を大きな要因として繁栄したPC/AT互換機であったが、その本家本元のIBMが、最終的にはその互換機同士の過当競争によって市場撤退へと追い込まれてしまうことになったのである。
 
一方、Macintoshは、アップルが他社による互換機を排し、ハードウェア・OS・小売事業の全てをアップル一社で提供する、という[[垂直統合 (ビジネス用語)|垂直統合]]のビジネスモデルを堅持したおかげで、全パーソナルコンピュータ販売数に占める割合、という点で見かけ上は小さくても、実は好調な利益率を確保することでビジネスとしては成功し、さらには、個人ユーザに焦点を合わせたことが功を奏し、パーソナルコンピュータ全体に占めるシェアまでも再びじわじわと拡大する傾向となった。
 
== 日本における歴史 ==
日本におけるパーソナルコンピュータ(パソコン)はその黎明期においては、主に米国からの輸入品とその互換機によって占められていたが、次第に独自アーキテクチャの製品を製造・販売するようになり、発展途上の処理能力に乏しい時期には[[日本語]]処理に独自の[[漢字]]表示機構を実装した事情から一時代を築いた。しかし、処理能力の向上により漢字表示も[[ソフトウェア]]にて実現することが可能となったため、1996年にはWindowsおよびを搭載したPC/AT互換機(いわゆる[[DOS/V]]機)の販売シェアが半数を上回り<ref>「96年度パソコン国内出荷台数、前年度比29.7%増―マルチメディア総研。」『日経産業新聞』 1997年4月24日、9面。</ref>、現在までに至っている。
 
パーソナルコンピュータ登場以前に日本で「パーソナルコンピュータ」という言葉が使われた例として、日立製作所が開発した日本初のミニコンピュータHITAC 10(1969年2月完成)のカタログに「パーソナルコンピュータ」の言葉が使われている<ref>http://madlabo.oops.jp/MAD/0007/hitaccat.jpg</ref><ref>http://madlabo.oops.jp/MAD/0007/0007.htm</ref>。
 
=== ワンボードマイコン・キットの時代 ===
[[ファイル:NEC μCOM80 TK-80E.jpg|サムネイル|NEC [[TK-80|TK-80E]](1977年)]]
黎明期の初端においては米国と同様にエンジニアや好事家が独自に部品を調達して[[ワンボードマイコン]]などを設計・制作し、あるいはもっぱら輸入された評価キットやワンボードマイコンなどが[[秋葉原]]の電子デバイス店などの小売店で細々と売られる程度であった<ref>{{Cite book|和書|author=安田寿明|title=マイ・コンピュータ入門 - コンピュータはあなたにもつくれる|series=ブルーバックス|year=1977|publisher=講談社|pages=78-118|chapter=第三章 マイ・コンピュータのつくり方}}</ref>。しかし米国でAltair 8800とその互換機が登場するとこれらの輸入品を主力に取り扱う店舗も登場するようになり「個人向けマイクロコンピュータの歴史」が始まる。
 
日本国内では[[1976年]][[5月]]に[[東芝]]より[[TLCS-12A]] EX-0<ref group="注">型番はTLCS-12A EX-12/0と表記されることもある</ref>(定価99,000円)が発売された<ref>東芝、すべてを1チップに集積したマイクロ・コンピュータを開発 - 日刊工業新聞 1976年8月12日付</ref>。電源装置を別途用意すれば、12ビットのLED表示とディップスイッチを使って[[テレタイプ端末]]などの入出力機器を必要とせずに動作させることができる日本国産初のワンボードマイコンである。のちの「国産マイコン」に連なる最初の製品は[[1976年]][[8月3日]]に[[日本電気]](NEC)から発売された[[TK-80]](定価88,500円)とされる。本機はTK(Training Kit)という名前からも分かるように、元来は[[Intel 8080|8080]]互換マイクロプロセッサの採用を検討する企業の技術者に向けた評価・教育用ツールであった。これはボードに16進キーボードと[[発光ダイオード|LED]]表示器がついただけのものだったが、同年9月に秋葉原に開設した[[Bit-INN]]でサポートが行われ<ref name="tk80_reldate">{{Cite book|和書|author=太田行生|title=パソコン誕生|year=1983|publisher=日本電気文化センター|isbn=4930916119|page=34}}</ref>、同年10月にNECマイコンクラブを結成するなど積極的なユーザ支援体制もあって、企画当初の予想を超えたベストセラーになった<ref>{{Cite web|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/bplus/2010/15/2010_15_15_58/_article/-char/ja/|title=J-STAGE : 電子情報通信学会 通信ソサイエティマガジン : Vol. 2010 No. 15 : PC-8001の開発|accessdate=2016-11-03|author=加藤明|date=2011-06-01|publisher=[[電子情報通信学会]]}}</ref>。
 
TK-80の立ち上がりを受けて他社からもワンボードマイコンが相次いで発売された。サードパーティからはその周辺機器が開発され、[[月刊アスキー]]や[[月刊マイコン]]などの専門誌も登場して「マイコンブーム」を形成した<ref>『パソコン革命の旗手たち』 pp.35-39、「マイコンキット TK-80」。</ref>。{{Main|ワンボードマイコン}}
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1977年9月、ベンチャー企業である[[東芝パソコンシステム|ソード電算機システム]](現 [[東芝パソコンシステム]])がM200シリーズを発売<ref>「ソード、スマート・ホーム・コンピューター M200シリーズ発売」『日経産業新聞』 1977年9月27日、4面。</ref>。これはコンピュータ本体とキーボード・モニタ・5インチFDDなど、必要な周辺機器を一体化したオールインワン・コンピュータであった<ref>{{Cite web|url=http://museum.ipsj.or.jp/computer/personal/0087.html|title=スマート・ホーム・コンピュータM200シリーズ-コンピュータ博物館|accessdate=2010-09-25|publisher=情報処理学会}}</ref>。BASICを採用していたが、価格は150万円とあまりにも高価でありパーソナルコンピュータ(個人所有の安価なコンピュータ)とはいえないものであった。これ以前にショップブランドではあるが、アスターインターナショナルよりキーボード・モニタ一体型のコスモターミナル-Dが発売されている<ref>「アスターインター、30万円割る低価格パーソナル電算機拡販へ」『日本情報産業新聞』 1977年9月19日、6面。</ref>。また、同年に月刊マイコンが創刊された(当時は隔月刊の出版元への直接注文であったが、創刊号8月、10月号を経て12月号より月刊誌となり、全国書店にて取り扱いを開始した)。この12月号の表紙がコスモターミナル-Dであった。同年11月、[[精工舎]](現 [[セイコーホールディングス|セイコー]])からSEIKO5700という業務用コンピュータが発売された<ref>「パーソナルコンピュータ完成―精工舎、内田洋行通じ発売」『日刊工業新聞』1977年11月9日、14面。</ref>。蛍光表示管やプリンタ・キーボード一体型の同機はフォートランを採用。しかし高価であったために、パーソナルという言葉のようには「一般化」はされておらず、研究開発の用途向けであったと思われる。
[[ファイル:Nec PC 8000 series.jpg|サムネイル|NEC [[PC-8000シリーズ|PC-8001]](1979年)]]
 
その後、パーソナル用途向けのより安価なコンピュータが各社から発売される(これ以前の物は個人所有にはあまりにも高価でパーソナル用途のコンピュータではなかった)。[[シャープ]]より[[MZ-80]]K([[1978年]])、日立より[[ベーシックマスター]]MB-6880(1978年)、NECより[[PC-8000シリーズ|PC-8001]]([[1979年]])が発売された。当初はこの3機種が[[8ビットパソコン]]初期の[[御三家]]と言われたが、ベーシックマスターレベル1・2は途中より遅れ気味となり(ただし完全に消えた訳ではなく一定のシェアはあった)1980年前後はPC-8001とMZ-80K/Cが人気を二分したと言っても過言ではない<ref>『パソコン革命の旗手たち』 pp.71-74、「3. 国民機の開発 : 草の根ユーザーの支援」</ref>。
 
当時の国産機日本で製造・販売されるパソコンとして主流であったのは、電源を入れればROMに書き込まれた[[BASIC]]が起動する(立ち上がる)[[ROM-BASIC]]マシンであった。これらはコンピュータを起動するとBASICインタプリタが起動され、コマンドプロンプトから直接BASICのコマンドを入力して処理を行うことができた。これらの機体の形状は Apple II にも似たキーボード一体型、ディスプレイ別置きであった。一方、シャープの[[MZ (コンピュータ)|MZ]]シリーズはインタプリタをROMであえて持たずに[[クリーンコンピュータ]]と称していたほか、ディスプレイも一体化して「オールインワン」として発売された。
 
1980年代初頭にはより高機能な8ビット機が発売された。NECは[[PC-8800シリーズ]]([[1981年]])、[[富士通]]が[[FM-8]]([[1981年]])、そのFM-8から周辺機能を削り、音源を搭載した[[FM-7]]([[1982年]])、シャープからはMZシリーズを開発した部署とは別のシャープテレビ事業部が開発した[[X1 (コンピュータ)|X1]]シリーズ(型番はCZ、[[1982年]])が登場し市場を寡占化した<ref>「シェア激戦区 日経調査(12) パソコン―タモリ指名殺到(産業ルポルタージュ)」『日経産業新聞』1983年6月7日、20面。</ref>。この頃には[[8ビット御三家]]とはこの3機種を指すようになった。また、後発の[[ソニー]]は初めて3.5インチの[[フロッピーディスク]]を内蔵した機種を発売して話題を集めた<ref>『パソコン革命の旗手たち』 pp.159-161、"6. 小さな頭脳 「私より、ちょっと賢い」"</ref>。なお、3.5インチマイクロフロッピーディスクの規格とは別に松下電器・日立が3インチのコンパクトフロッピーディスクという規格を策定したが普及するには至らず、最終的にはソニーの推す3.5インチが主流となった<ref>『パソコン革命の旗手たち』 pp.169-173 「6. 小さな頭脳 : 3.5インチフロッピーディスク」</ref>。
[[ファイル:Sony SMC-70 Micro Computer.jpg|サムネイル|ソニー [[SMC-70]](1982年)]]
 
この頃に他のメーカーから発売された機種は以下の通り。
* 日立は[[ベーシックマスター]]レベル3(1980年) 初の6809+同MPU用MicrosoftBASIC搭載
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* 多色化の先駆けとなった東芝のパソピア7(1983年)
 
[[ファイル:Sinclair ZX81 Setup PhotoManipped.jpg|サムネイル|[[シンクレア ZX81]](1981年)]]
この頃の市場では、10万円を大きく切る低価格の機種と10万円を超える機種へと二極化が進んだ。低価格機種の代表としては、
*[[シンクレア ZX-81(ZX81|ZX81]](シンクレア81)(1981)(1981年)
* [[東芝パソコンシステム|ソード計算機]](現 [[東芝パソコンシステム]])の[[M5 (コンピュータ)|M5]](1982年)
* [[トミー (企業)|トミー]](現 [[タカラトミー]])の[[ぴゅう太]](パソコン史上に残る稀有な日本語BASICを搭載していた)(1982年)
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またホビーパソコンが人気を博した背景には各地に大小のゲームセンターができて[[ギャラクシアン]]や[[ドンキーコング]]、[[パックマン]]などのゲームが人気となり、それらのゲームが移植されたことの影響も大きいと考えられる。
 
同時代の日本国産機に採用されていたCPUは、ごく初期において[[モステクノロジー]]の[[MOS 6502|6502]]やインテルの8080などの採用例が見られるものの、以後は8080の上位互換となるZ80に代表されるザイログ(Z-80A, Z-80B)、68系のモトローラ(6800, 6801, 6802, 6809, 6809E)およびそれらの互換・カスタムCPUが主流であった。ただし、このZ80自体とは8080を独自に拡張した8080の(上位)互換プロセッサである。これは、マイコンブームが日本において成立した時点でインテルの8080系は市場においてその主流を上位互換性を確保するZ80に奪われており、採用例が稀であったことに起因する。現在{{いつ|date=2013年12月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->主流となっているインテルのCPUは国内日本においては16ビット時代になってパソコンに本格的に採用されることとなる。
 
=== 8ビットパソコンの終焉 ===
[[ファイル:Philips MSX2 computer at Play Expo 2013 (1).JPG|サムネイル|フィリップス MS8250 (MSX2)]]
[[1982年]]に後述のPC-9800シリーズが登場する一方で、MSXが出た同じ年の[[1983年]]、[[任天堂]]から[[ファミリーコンピュータ]]が登場。機能の絞込みによる低価格を武器に[[アーケードゲーム]]の各メーカーが参入してタイトルが豊富に出揃い、爆発的に普及した。コピーに悩まされていたゲームメーカーは、次第に、コピーが難しいファミリーコンピュータ用に開発するようになった。
 
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=== 16ビットパソコン・黎明期とMS-DOSへの移行 ===
[[ファイル:NEC PC-9801UV owned by Takayama city.jpg|サムネイル|NEC [[PC-9800シリーズ|PC-9801UV11]](1988年)]]
[[ファイル:Toshiba J-3100GT.jpg|サムネイル|東芝 [[J-3100シリーズ|J-3100GT]](1987年)]]
[[1978年]]に科学技術計算および計測制御用途として16ビットパソコンC-15が[[PFU|パナファコム]]から発売された<ref>{{Cite web |url=http://pc.watch.impress.co.jp/docs/topic/feature/633377.html |title=PFU「ProDeSセンター」見学記 |accessdate=2016年7月4日 |author=山口真弘 |date=2014年2月1日 |work=PC Watch |publisher=[[インプレス]] }}</ref>{{sfn|山田昭彦|2014|p=313}}。[[1981年]]、業界初の16ビット業務用パソコンをうたう[[MULTI 16シリーズ|MULTI16]](OSはCP/M-86)が三菱電機より発表されるが<ref>{{Cite web |url=http://museum.ipsj.or.jp/computer/personal/0009.html |title=【三菱電機】 MULTI16 |accessdate=2016年7月4日 |work=コンピュータ博物館 |publisher=[[情報処理学会]] }}</ref>{{sfn|山田昭彦|2014|pp=238-239}}、コンシューマ向けに意図されたものではなく、一般にはほとんど普及することはなかった<ref>『パソコン革命の旗手たち』 pp.92-96 「3. 国民機の開発 : IBM産業スパイ事件」</ref>(製品としての寿命は長かった)。
 
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* [[PC-9800シリーズ]]、[[N5200]] (NEC)
* [[EPSON PCシリーズ]](エプソンのPC-9801互換機)
* [[マルチステーション5550]]、[[IBM JX]]、[[PS/55]](日本IBMの日本独自アジア太平洋地域向け仕様)
* [[AX]](AX協議会各社)
* [[FM-11|FM-11(EX,BS)]]、[[FM-16β]]、[[FACOM 9450]]、[[FMRシリーズ]](富士通)
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=== 16/32ビットパソコンの転換 ===
[[ファイル:Vcfe2007 img 5135.jpg|サムネイル|シャープ [[X68000]] ACE(1988年)]]
16/32ビットパソコンは出現当初はビジネス用として位置付けられている機種がほとんどであった。[[ワードプロセッサ]](ワープロ)・[[表計算]]・[[CAD]]と[[汎用コンピュータ|大型機]]の[[端末]]が主な用途で、解像度は高かったが多色表示やサウンド機能が充実した機種はあまりなかった。
 
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=== 32ビットパソコン・Windowsの時代 ===
[[ファイル:Ibm300pl.jpg|サムネイル|IBM [[IBM PC Series|PC 300PL]](1997年)]]
[[1990年]]頃には[[FM TOWNS]]のように日本国産機も32ビットCPUを採用する機種が現れた。同じ頃[[PC/AT互換機]]で日本語の取り扱いが可能になるOS「[[DOS/V]]が登場し、また[[1991年]]にはGUIを使った[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.0]]が発売され、世界的な標準機である「PC/AT互換機」が上級ユーザを中心に日本に流入し始めた。この頃に[[PCオープン・アーキテクチャー推進協議会|OADG]]も結成され、日本国内独自のビジネスパソコンやAX機を発売していたメーカーはPC/AT互換機路線に転換した<ref name=":5">{{Cite journal|和書|author=塩田紳二|year=1998|title=国産銘機列伝 : History 「そして、世界標準がやって来た」|journal=ASCII|volume=22|issue=8|pages=378-379|publisher=アスキー|ISSN=03865428}}</ref>。
 
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[[1995年]]にGUIを大改良した[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]の発売が開始されると、日本でも新聞やTVのニュース番組で大きく取り上げられたため新規のパソコンユーザを増やす起爆剤となった<ref>{{Cite web|url=http://www.wincons.or.jp/view/vol18/WV-08.html|title=Windows View Vol.18 : WinViewインフォメーション&レポート|accessdate=2016-11-03|date=1995-11|publisher=Windowsコンソーシアム事務局}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=|year=2006|title=パソコン業界のあの事件を追え!:ウインドウシステムとWIndows 95|journal=ASCII|volume=30|issue=8|page=|pages=72-73|publisher=アスキー}}</ref>。さらに98互換機のエプソンもPC/AT互換機に転換し日本国内独自パソコンはホビーユースを含めて終焉へ向かった。残ったNECも[[1997年]]ついにPC/AT互換機である[[PC98-NXシリーズ]]への転換を表明した。この頃までのパソコンは、主に[[ワードプロセッサ]]、[[表計算ソフト]]、[[データベース]]などのオフィスアプリケーションを利用するツールとして普及していった<ref>{{Cite journal|和書|year=2006|title=パソコン業界のあの事件を追え!:オフィスとパーソナルコンピュータ|journal=ASCII|volume=30|issue=8|pages=74-75|publisher=アスキー}}</ref>。
[[ファイル:CF-S21 Panasonic.jpg|サムネイル|パナソニック [[Let'snote]](1998年)]]
 
[[1998年]]に[[iMac]]が発売された頃からパソコンが[[インターネット]]を利用する端末として台頭する<ref>{{Cite web|url=http://www.kogures.com/hitoshi/history/internet/|title=インターネットの歴史概要<通信の歴史<歴史<木暮仁|accessdate=2016-11-08|publisher=木暮仁}}</ref>。また、Windows・Macintoshのほか、[[Linux]]・[[BSD]]などの[[Unix系]]OSも新たに台頭した。これらの普及は[[ワークステーション]]や[[オフィスコンピュータ]]の領域をも侵食し、[[クライアント (コンピュータ)|クライアント]]用途だけでなくパソコンで[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]の[[サーバ]]を組むことも普通に行われるようになった。
 
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==== 2006年〜2010年 ====
[[ファイル:Acer.aspire-522.amd-fusion.ubuntu 1c555 7145.jpg|サムネイル|Acer Aspire One(2011年)]]
パソコンの低価格化が一段と進み、平均販売価格の下落は底が見えず、平均価格の下落とともに、出荷金額も減少している。この頃よりノートPCの販売割合が増え、[[ネットブック]]が大流行した。シェアを失ったデスクトップPCは、大手メーカーの生産縮小やモデル数減少、販売店の販売スペースの縮小や販売からの撤退が進んだ。また、[[eMachines]]・[[Gateway]]・[[シャープ]]・[[日立製作所]]・[[ソーテック]]・[[飯山電機]]など、メーカーの撤退や買収などの再編が進んだのもこの時期である。
 
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{| class="wikitable" style="text-align:right"
|+ パソコン本体の日本国内出荷動向(出典:[[電子情報技術産業協会|JEITA]])<ref>1989年までの統計は、日本電子工業振興協会(編)『パソコン白書94-95』、コンピュータ・エージ社、pp.27-29、ISBN 4875661479 より。</ref>
! 年度 !! 台数(千台) !! 金額(億円) !! 平均価格(千円) !! デスク:ノート割合
|-