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▲'''宮古路豊後掾'''(みやこじぶんごのじょう、[[万治]]3年([[1660年]])? - [[元文]]5年[[9月1日 (旧暦)|9月1日]]([[1740年]][[10月21日]]))は、[[江戸時代]]中期の[[浄瑠璃]]の太夫。京都の生まれ。
師に
これら豊後節から派生した浄瑠璃は「豊後系浄瑠璃」と呼ばれており、[[常磐津節]]・[[富本節]]・[[清元節]]は合わせて豊後三流、これに[[新内節]]を加えて豊後四流とも呼ばれている。あまりの人気に豊後節は禁止令などが発令され、舞台出演禁止、稽古禁止などの厳しい弾圧を受けた。扇情的な詞章や語り口が、頻繁に起きた武士階級の子息令嬢の心中事件と関係づけられたのが原因と言われているが、一説では[[尾張藩]]の[[徳川宗春]]と親交があり、[[享保の改革]]を出した[[徳川吉宗]]との対立が、少なからず豊後節弾圧に関係しているという説もある。また、豊後掾の髪形や長羽織を真似る「文金風」が一世風靡したと言われているが、年齢を考慮すると「文金風」も「豊後節弾圧」も高弟である宮古路文字太夫によるところが大きいという<ref name="yasuda">『常磐津節の基礎的研究』安田文吉著、1992年、39頁、ISBN4-87088-529-8 C3395</ref>。
==代表作==▼
*都国太夫時代「寿の門松([[近松門左衛門]]作)」「三度笠相合駕籠道行(近松門左衛門作)」「丹波与作夢路の駒(近松門左衛門作)」「酒呑童子」「頼光四天王大江山道行」「小春髪結」「此頃草」「二重帯名残屋結」▼
*宮古路国太夫時代「都鳥伊勢物語(都万太夫座)」「山崎与次郎兵衛半中節(嵐山右衛門座)」「傾城亥刻鐘」「双紋刀銘月」▼
*宮古路豊後時代「松竹梅根本曽我(市村座)」「睦月連理玉椿」「伝授の雲龍」▼
文金風については「元文より町人の羽織丈け長くなるは上るり太夫都古路に始るなり(我衣)」「豊後節の流弊次第に淫風に移りて遊市俗人の風俗あらぬものに成行て髪も文金風とてわげの腰を突立、元結多く巻いて巻髪の毛を下より上へかきあげ月代のきはにて巻こみてゆひたり、衣装對尺の羽織を著長きひもを先にちひさく結び、下駄の歯にかゝるようにして、腰の物は落しざしにさし懐手して駒下駄はきて市中をぶらぶら歩行たり(賤のをた巻)」「髪の毛逆だって髪のまげが頂上に上がり眉毛ぬけて業平に似たり羽織はがふして地を掃ひ~浄瑠璃より身振りを第一とまなび小したゝるい風俗して飛あるく輩もおほく、あまつさへ女があられもない羽織で脇差迄さした奴も折節見ゆるぞかし」と酷評で、のちの豊後節弾圧に少なからず関係したものだったが、その反面大衆に広く浸透し、それまで辰松島田と言われていた髪型を文金島田と呼び変えさせてしまうほどの大流行だった。これは元文元年に改鋳した小判「真文字金」を略して文金といったものだが、同じころ豊後節で人気を博した宮古路文字太夫の名に通じることから、この様な髪形を文金風と呼ぶようになった。女性の髪の結い方である[[高島田]]の変形のうちで比較的早くに誕生し、最も格の高いもので、特に根が高いものは武家の女性に結われ、町娘や京阪の芸妓遊女にも好んで結われた。この文金高島田は現在でも花嫁に結われている。
宮古路豊後掾は1740年に没したあと、1746年に高弟であり養子でもある初代[[常磐津文字太夫]]によって[[浅草寺]]境内に慰霊碑が建立される。また、昭和50年には[[折口信夫]]によって「文金風流」という名で戯曲化もされている。
享保17年(1732年)から、高弟である宮古路文字太夫を伴い名古屋に進出する。享保19年(1734年)正月、名古屋で実際にあった心中事件を題材とした出世作「睦月連理椿」で大好評を得る。同年、文字太夫を名古屋に残してさらに江戸に進出する。播磨座で「おさん伊八道行」を演じ好評を受け、掾号を[[受領]]して宮古路豊後掾橘盛村となり、大劇場である江戸[[中村座]]に進出する。▼
==豊後節の特徴==
元文3年(1738年)には、江戸での舞台を弟子にまかせ、西に戻り京阪の劇場で活躍する。元文4年(1739年)には[[江戸町奉行]][[水野勝彦]]によって、浄瑠璃太夫の名を出すこと、稽古場の看板をあげること、文金風を真似ること、などが禁止され、特に豊後節の浄瑠璃語りが非常に厳しい弾圧を受ける。元文5年(1740年)9月1日、没。▼
*豊後節「睦月連理椿(むつきれんりのたまつばき)」が出世作であり最高傑作と言われている。新作は少なく、豊後節の段物集「宮古路月下の梅(江戸版)」「宮古路窓の梅(大阪版)」に収録されている作品の多くは、[[義太夫節]]の世話浄瑠璃(近松門左衛門作)から道行部分を抜粋し脚色したものである。豊後掾の創作した作品には「寿の門松」「三度笠相合駕籠道行」「頼光四天王大江山道行」「与作小まん夢路の駒」などがあり、いずれも[[近松門左衛門]]が筆をとっている。
*豊後節は一中節をことごとくやわらげたものであり、劇的というより情緒的で煽情的、セリフより美しい歌謡本位の行き方に主眼がおかれ、[[一中節]]よりもはるかに艶がある憐情たっぷりのものであった<ref name="kitsukawa2">『日本音楽の歴史』吉川英史著、1965年、262頁、ISBN4-422-70003-0</ref>。一口に軟派の代表とされる豊後節ではあるが、宮古路豊後掾の豊後節と、高弟文字太夫の豊後節とでは性質が異なり、前者は原作の俯瞰的な語り手の立場を主体とし、詞章(歌詞)に寄りかかって語っていたもので、後者は恋情を語るという点では前者と同じだが、複数の世界や趣向を絡めた複雑な筋立てで、演出も派手であったという。この後者の劇性の高さは[[歌舞伎]]伴奏に適したのちの[[常磐津節]]へとつながり、従来の豊後節の特徴であり豊後掾が目指した感性に訴えるような曲節を受け継いだのが新内節である。 また、当時の狂歌に『河東裃、外記袴、半田羽織に義太股引、豊後かはいや丸裸』と他流(河東節や一中節)の愛好者が豊後節弾圧を形容したものであるが、これは却って、いかに豊後節が隆盛していたのかを示している。また、この様に言われたのは豊後節が[[常磐津節]]へと変貌しつつある段階のことは明らかなので、その隆盛に対する嫉妬の矛先は豊後掾ではなく文字太夫であったと推察できる<ref name="iwasa2">『江戸豊後浄瑠璃史』岩沙慎一著、1968年、34・35頁</ref>。
==年譜==
*万治3年([[1660年]])-京都に生まれる。のちに都太夫一中に師事する。
*享保元年([[1716年]])-都国太夫半中と号す。[[徳川吉宗]]の[[享保の改革]]が始まる。
*享保3年([[1718年]])-竹本座で「博多小女郎浪枕」を語り、国太夫節・半中節と言われ人気を博す。
*享保7年([[1722年]])-[[歌舞伎]]外題に「山崎与次兵衛半中節」と書かれるほどの影響力を見せる。心中の流行を危惧した幕府により心中物(男女相対死)の上演が禁止されたのにもかかわらず、上方で人気を博し窮地を乗り越えることができたのは「語り口を工夫し、既成作品を活かす」といった国太夫節・半中節の特徴が挙げられる。
*享保8年([[1723年]])-師である都太夫一中が没し、都路国太夫と改名して独立する。
*享保15年([[1730年]])-宮古路豊後と改名し[[豊後節]]を創始する。
*享保16年([[1731年]])-江戸で豊後節が風紀上好ましくないとされ禁止される。名古屋では徳川吉宗と将軍職を争った七代藩主[[徳川宗春]]により景気高揚策がとられ、遊郭や芝居小屋が多く新設される。
*享保17年([[1732年]])-江戸に下り「八百屋お七・吉祥院の場」で大好評を得る。高弟である宮古路文字太夫を伴い、名古屋に進出する。
*享保18年([[1733年]])-日置村畳屋喜八と飴屋町花村屋遊女小さんが名古屋闇の森で心中事件を起こす。
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*享保20年([[1735年]])-江戸[[中村座]]で「睦月連理椿」が上演、爆発的な人気を得る。宮古路文字太夫も上方から下り、合流する。
*元文元年([[1736年]])-高弟・宮古路文字太夫の「小夜中山浅間嶽(市村座)」が[[北町奉行]]稲生下野守の命で興行中止となる。「宮古路浄瑠璃太夫共芝居興行の儀ハ苦しからず、宅にて稽古不相成と被仰渡(歌舞伎年表)」との沙汰が出される。9月には芝居出勤は許されるが、自宅稽古は禁じられる。
*元文2年([[1737年]])-豊後掾が「茜染野中の隠井」を最後に京に帰る。以降は京阪の劇場で活躍する。
*元文3年([[1738年]])-30人近くの武士階級の妻や娘が心中ないし家出をし、その中には北町奉行稲生下野守の娘も含まれていた。
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*元文5年([[1740年]])-9月1日、没。
▲==代表作==
▲*都国太夫時代「寿の門松([[近松門左衛門]]作)」「三度笠相合駕籠道行(近松門左衛門作)」「丹波与作夢路の駒(近松門左衛門作)」「酒呑童子」「頼光四天王大江山道行」「小春髪結」「此頃草」「二重帯名残屋結」
▲*宮古路国太夫時代「都鳥伊勢物語(都万太夫座)」「山崎与次郎兵衛半中節(嵐山右衛門座)」「傾城亥刻鐘」「双紋刀銘月」
▲*宮古路豊後時代「松竹梅根本曽我(市村座)」「睦月連理玉椿」「伝授の雲龍」
==脚注==
<references />
{{デフォルトソート:みやこしふんこのしよう}}
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