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[[Image:Etienne Marcel.jpg|right|thumb|200px|エティエンヌ・マルセル]]
[[Image:Étienne Marcel.jpg|thumb|200px|エティエンヌ・マルセルの銅像([[パリ市庁舎]])]]
'''エティエンヌ・マルセル'''(Étienne Marcel, [[1315年]] - [[1358年]][[7月31日]])は、[[フランス王国]]の市民指導者、[[パリ]]市長。[[百年戦争]]の間に一時的にパリを支配下に置いた。後世からは「'''中世の[[ジョルジュ・ダントン|ダントン]]'''」と呼ばれる。
 
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王太子シャルルがパリを離れると、エティエンヌはパリの防衛を固めるとともに、1358年には[[ジャックリーの乱]]の指導者ギヨーム・カルルと提携した。しかし、この反乱が6月に鎮圧されると、エティエンヌの人気と勢力は瓦解し、[[フランドル]]やさらには敵国であった[[イングランド王国|イングランド]]の支援をも求めようとしていた。最期の時期には、当初の目的意識から外れて、自身の保身のためにフランス王を望むナバラ王カルロス2世の利益を支援したといわれる。7月にカルロス2世を迎え入れる準備をしている時に守備隊長の1人に暗殺された。マルセルの一党は逮捕され、王太子シャルルがパリに招きいれられた。
 
== 文化的遺産 ==
* [[1888年]]、[[パリ市庁舎]]の南端に位置する庭にエティエンヌ・マルセルの騎馬像が設置された。
* [[1988年]]、パリの1区と2区の間の通りのひとつが[[エティエンヌ・マルセル通り]]と命名された。中央市場([[レ・アル]])跡にあるショッピングセンター[[フォーラム・デ・アル]]の北側に位置し、上記の市庁舎からは徒歩15分ほど離れている。
* 上記の通りに面する[[パリメトロ4号線]][[エティエンヌ・マルセル駅]]は通りから命名された。
* [[アンドレ・ブルトン]]の詩「ひまわり」には、エティエンヌ・マルセルの像が登場する。
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