「モーリス・ルブラン」の版間の差分

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ルブランは[[パリ]]に引っ越し、[[純文学]]作家になるが、書いた作品は文壇で多少の評価を得たものの収入には結びつかず、40歳を過ぎるまで、うだつの上がらない貧乏作家生活<ref>もっとも、1885年に亡くなった母親ブランシュの遺産を相続していたし、1905年には父親も亡くなり、共にそこそこの額の財産を相続していたので、決して貧乏ではなかった。リュパン物を書く必要に迫られたのは、一つには再婚相手マルグリットの浪費癖があったと見るべきだろう。</ref>が続く。しかし友人の編集者ピエール・ラフィットに、[[大衆小説]](冒険推理小説)の執筆を依頼され、転機が訪れる。
 
通俗作家への転向に気が進まないながら、金に困っていたルブランは知恵を絞り、当時ヒットしていた[[コナン・ドイル]]の[[シャーロック・ホームズ]]物のアンチヒーローとなる<ref>当時ルブランはドイルの作品を読んだことは無かった。</ref>、軽妙で魅惑的な「泥棒紳士」の[[アルセーヌ・ルパン]]を創造した。[[1905年]]に発表した第一作「アルセーヌ・ルパンの逮捕」が評判になり売り上げも好成績だったため、ルブランは続編を書くことにし、結局以後の作家人生のほとんどをルパンに注ぎ込んだ。ルパンは大あたりを取り、ルブランに作家としての名声と、経済的な報酬をもたらした。ドイルがホームズ物を飽くまで第三者の視点で描いたのに対し、ルブランは1907年発表の「[[怪盗紳士ルパン]]」中で、自身をルパンの伝記作家として登場させている(「王妃の首飾り」、「[[ハートの7]]」)
 
コナン・ドイルは[[シャーロック・ホームズシリーズ|ホームズシリーズ]]の成功に対してむしろ困惑し、犯罪小説で成功することを、より「尊敬に値する」文学的情熱から遠ざけるもので、生活を妨害されているようでさえあると感じていたともいわれている。同様にルブランも、もともと純文学・心理小説作家を志していた事もあり、[[犯罪#犯罪とフィクション|犯罪小説]]・[[探偵小説]]であるルパンシリーズで名声を博する事に忸怩たるものがあったといわれる。ドイルがホームズを[[ライヘンバッハの滝]]に落としたのと同様、ルブランも『[[813 (小説)|813]]』(1910年)でルパンを自殺させている。「ルパンが私の影なのではなく、私がルパンの影なのだ」という言葉などにも、その苦悩の跡が見られる。その後は歴史小説『国境』(1911年)、モーパッサンの影響のある短編集『ピンクの貝殻模様のドレス』(1911年)、空想的な作風の『棺桶島』(1919年)、[[サイエンス・フィクション|SF]]に分類される『三つの眼』(1919年、[[ファーストコンタクト]]・テーマ)、『ノー・マンズ・ランド』(1920年)などを発表。また1915年頃から映画公開と並行して発売される小説シネロマンという形態が生まれると、その執筆者に名を連ねた。
 
その後1920年『アルセーヌ・ルパンの帰還』でにルパンを復活させ、1927年には新しい探偵ジム・バーネットものを発表するが、このバーネットも実はルパンであることが後に明かされた。1930年代には文学界からも作家として高い評価を得るようになり、『ラ・レピュブリック』紙でフレデリック・ルフェーヴルから「今日の偉大な冒険作家のひとりである」「同時に純然たる小説家、正真正銘の作家である」と賞されている<ref>ジャック・ドゥルアール「モーリス・ルブラン 最後の小説」坂田雪子訳(『リュパン、最後の恋』東京創元社 2013年)</ref>。1930年代には恋愛小説『裸婦の絵(''L'image de la femme nue'' *これは絵じゃなく彫刻。裸婦像)』『青い芝生のスキャンダル』も執筆。小説の戯曲化にも意欲を注ぎ、1935年には『赤い数珠』を舞台化した『闇の中の男』が大成功を収めた。