「筑後十五城」の版間の差分

編集の要約なし
蒲池氏を筆頭とする筑後の領主は、大友氏の幕下にあって戦の度に動員されはしたものの、大友氏の軍事力に従っているにすぎず、常に独立あるいは敵対の可能性を秘めており、そのため大友氏は、筑後国内に「高一揆衆」という大友氏直参の小[[豪族]]を配置し、「大名分」としての筑後十五城の大身を監視した。
 
大友氏が[[耳川の戦い]]で[[島津氏]]に大敗すると、[[肥前国]]を平定した[[龍造寺隆信]]が筑後に進出を開始、たちまち筑後の国人領主たちは龍造寺軍に参陣した。当初は抵抗した上蒲池の[[蒲池鑑広]]、[[今山城]]の[[三池鎮実]]、[[問註所鑑景]]なども、後には龍造寺氏に属した。島原[[沖田畷の戦い]]で、龍造寺隆信が戦死した後も、上蒲池、黒木、西牟田、草野、星野、問註所(鑑景)氏らは、龍造寺家に起請文を送って異心なき旨の心底を表わしている。
 
筑後十五城筆頭の柳川の[[蒲池鎮漣]]は[[龍造寺隆信]]の与力として龍造寺氏の尖兵となるが、やがて両者は反目し、隆信は[[柳川城]]を包囲する。蒲池鎮漣の籠城は長期に及び、その後一旦和睦となったが、鎮漣が[[薩摩]]の[[島津氏]]に通じていたことが発覚したため、隆信は鎮漣を肥前に招いて謀殺、下蒲池を滅ぼして柳川を制圧した。
154

回編集