「大黒屋光太夫」の版間の差分

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[[1783年]]1月([[天明]]2年12月)、光太夫は船員15名と紀州藩から立会いとして派遣された農民1名とともに神昌丸で[[紀州藩]]の囲米を積み、伊勢国[[白子港|白子の浦]]から[[江戸]]へ向かい出航するが、駿河沖付近で暴風にあい漂流する。7か月あまりの漂流ののち、一行は[[国際日付変更線|日付変更線]]を超えて[[アリューシャン列島]]の1つである[[アムチトカ島]]へ漂着。先住民の[[アレウト人]]や、[[毛皮]]収穫のために滞在していた[[ロシア人]]に遭遇した。彼らとともに暮らす中で光太夫らは[[ロシア語]]を習得。4年後([[1787年]])、ありあわせの材料で造った船によりロシア人らとともに島を脱出する。もともとはロシア人に保護されるような立場だったが、そのロシア人たちを帰還させるための船が到着目前で難破し、漂流民が逆に増えた。そのため、光太夫らが逆に指導的立場に立って、難破した船の材料などを活用し、脱出用の船を作った。
 
その後[[カムチャツカ]]、[[オホーツク]]、[[ヤクーツク]]を経由して[[1789年]]([[寛政]]元年)[[イルクーツク]]に至る。道中、カムチャツカで[[ジャン=バティスト・バルテルミー・ド・レセップス]]{{enlink|Barthélemy de Lesseps}}(フランス人探検家。スエズ運河を開削した[[フェルディナン・ド・レセップス]]の叔父)に会い、後にレセップスが著した[[レセップスの旅行日記|旅行記]]には光太夫についての記述がある<ref> ''Journal historique du voyage de M. de Lesseps, consul de France, employé dans l'expédition de M. le comte de la Pérouse en qualité d'interprète du roi ; depuis l'instant où il a quitté les frégates Françaises au port Saint-Pierre et Saint-Paul du Kamtschatka jusqu'à son arrivée en France le 17 octobre 1788'' , Paris, Impr. royale 1790 , 2 vol. Royal 1790, 2 vol. in 8. in 8. [http://www.lindahall.org/events_exhib/exhibit/exhibits/voyages/bibliography.shtml フランス語の原題] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20081013080050/http://www.lindahall.org/events_exhib/exhibit/exhibits/voyages/bibliography.shtml |date=2008年10月13日 }} 1790年英語に翻訳された。英題''Travels in Kamchatka during the years 1787 and 1788'' [http://books.google.com/books?ct=result&q=%22Travels+in+Kamchatka+during+the+years+1787+and+1788%22&btnG=Search+Books 英語版を出典に使用している例が見られる]</ref>。イルクーツクでは日本に興味を抱いていた博物学者[[キリル・ラクスマン]]と出会う。キリルを始めとする協力者に恵まれ、[[1791年]](寛政3年)、キリルに随行する形で[[サンクトペテルブルク]]に向かい、キリルらの尽力により、[[ツァールスコエ・セロー]]にて[[エカチェリーナ2世]]に謁見し、帰国を許される。このさい、ロシア政府は日本との通商を目的として、光太夫たちを届ける予定でいたため、商人であった光太夫から日本の商業についての情報が聴取されている<ref>{{Cite book|和書|author=[[レフ・セミョーノヴィチ・ベルグ|L.ベルグ]]|year=1942|title=カムチャツカ発見とベーリング探検|publisher=龍吟社|pages=P.222}}</ref>
 
=== 日本への帰国と日露交渉 ===