「杉浦正健」の版間の差分

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1986年[[6月2日]]、[[死んだふり解散|衆議院解散]]。[[永田安太郎]]以来31年ぶりの地元[[保守]]系代議士の誕生を目指す岡崎市では、かつて[[稲垣実男]]派の県議であった中根鎭夫市長はじめ{{Refnest|group="注"|中根鎭夫は1925年4月5日、[[額田郡]][[常磐村 (愛知県額田郡)|常磐村]]大字大柳(現・岡崎市[[大柳町 (岡崎市)|大柳町]])に大山家の長男として生まれた。奥殿村(現・岡崎市[[奥殿町]])の中根家の養子となるも、8歳のときに養父と死別した。1975年、県議に初当選。1976年に[[稲垣実男]]が[[第34回衆議院議員総選挙]]に立候補した折は岡崎・額田地区稲垣後援会会長として稲垣を支援した<ref>『[[東海愛知新聞|東海新聞]]』1976年11月24日、1面、「総選挙事務所めぐり (4) 稲垣候補 自新」。</ref>。[[中野四郎]]と岡崎市長の[[内田喜久]]が決裂した1980年1月頃、中野は、中根と柴田尚道の両県議を[[額田町]](現・岡崎市[[中金町 (岡崎市)|中金町]])の料理屋に呼び出し、中根に向かって「君が市長をやれ」と告げた。同年6月30日、公職選挙法違反容疑で逮捕された内田が辞職。8月の市長選で中根は初当選した。2018年1月3日、老衰のため死去。享年92<ref>森田真奈子「頑固な『へそ曲がり市長』 岡崎の関係者、故中根さんしのぶ」 『中日新聞』2018年1月5日付朝刊、西三河版、19面。</ref>。}}、自民系市議のうち一人を除いた全員が杉浦の支援に回った<ref name="asahi19870423" /><ref>『中日新聞』1990年2月23日付朝刊、31面。</ref>。[[7月6日]]の[[第38回衆議院議員総選挙|総選挙]]において、[[愛知県第4区 (中選挙区)|旧愛知4区]]順位3位で初当選した{{Refnest|group="注"|1986年の初当選時の同期には[[鳩山由紀夫]]・[[斉藤斗志二]]・[[三原朝彦]]・[[村井仁]]・[[逢沢一郎]]・[[金子一義]]・[[武村正義]]・[[園田博之]]・[[中山成彬]]・[[新井将敬]]・[[石破茂]]・[[笹川堯]]・[[武部勤]]・[[井出正一]]・[[村上誠一郎]]などがいる。}}。中野の秘書の中原義正は無所属で出馬したが落選した。
 
[[1988年]]の岡崎市長選は、前年の[[岡崎市制70周年記念博覧会|葵博]]で市制70周年周年記念事業事務局長として手腕をふるった石原武建設部長が中根市長の3選阻止に立ち上がった<ref>『[[東海愛知新聞]]』1988年3月4日、1面、「岡崎市長選 石原氏が出馬表明 自民党支部に推薦願 中根市長も申し入れ」。</ref>。「骨肉の争い」と評されたこの年の市長選において、自民党岡崎市支部長の柴田尚道前県議は石原を支持し、保守系市議は自民クラブの推す中根派と市政クラブの推す石原派に真っ二つに割れた<ref>『中日新聞』1990年4月5日付朝刊、30面、「追跡 票とカネ 第一部、買収の現場から (3) 政争土壌 十年一日のお家騒動」。</ref>。保守勢力のまとめ役となるべき杉浦は中根の支持に回り、稲垣実男も中根を支援。これに対し[[浦野烋興]]が石原を支援したため、自民党派閥の代理戦争の様相も示した<ref>『中日新聞』1988年8月1日付朝刊、1面、「岡崎市長に中根氏 石原氏に2万票差で3選」。</ref>。岡崎市選出の自民党県議も二つに分かれ、柴田紘一は中根につき、[[内田康宏]]は石原についた<ref>『東海愛知新聞』1988年8月1日、1面、「岡崎市長に中根氏3選 石原氏に2万票の差 現職の強み発揮 投票率は53%と低調」。</ref>。[[7月31日]]、中根は3選を果たしたものの、石原を支持した旧中野四郎派の人々が杉浦から離れ、のちの現金買収事件を生む遠因となった<ref name="chunichi19900226">『中日新聞』1990年2月26日付朝刊、30面、「汚れた集票 緊急レポート 義理と人情のタテ社会 懲りない面々、また買収劇」。</ref>。
 
同年9月、[[武村正義]]、[[鳩山由紀夫]]らと共に政策勉強会「[[ユートピア政治研究会]]」を結成<ref name="CHUNICHI19890129" />。
 
=== 再選、選挙違反事件 ===
[[1990年]][[2月18日]]に行われた[[第39回衆議院議員総選挙|総選挙]]で再選。当選直後、杉浦の票の取りまとめに関する現金買収事件が発覚。杉浦の公設秘書を務めていた実弟が買収資金として現金1,300万円を後援会事務局長の鈴木康夫に渡し、鈴木がそのうち約1,000万円を[[岡崎市議会]]議員に供与したとされる<ref>『中日新聞』1990年2月27日付朝刊、31面、「ニュース前線/ 怖さ知らず金権指揮 鈴木容疑者、市長選で選対分裂 表舞台に」</ref>。同年[[2月22日]]から[[3月18日]]にかけて、被買収の疑いで市議13名が逮捕された<ref>『中日新聞』1990年2月23日付朝刊、2月26日付朝刊、3月19日付朝刊。</ref>。9月までに17名の市議が退職し、[[11月4日]]にその補選が行われた(翌[[1991年]]にさらに2名退職)<ref>{{Cite book|和書
[[1990年]][[2月18日]]に行われた[[第39回衆議院議員総選挙|総選挙]]で再選。ところが当選直後、杉浦の票の取りまとめに関する現金買収事件が発覚した。
 
杉浦の実弟は1986年の総選挙後に兄の公設第一秘書となり、その年の清和会の忘年会で先輩秘書から裏金づくりを教えられる。自身の給料やボーナス、就職斡旋の謝礼金などを3年がかりでこつこつと貯め、[[議員会館]]の机の引き出しに1,300万円を蓄えた<ref>『中日新聞』1990年4月16日付夕刊、13面、「岡崎6市議被買収認める 汚れた集票生々しく 名地裁初公判 杉浦氏派違反」。</ref><ref>『中日新聞』1990年4月27日付夕刊、17面、「買収の趣旨は否認 選挙違反 杉浦氏実弟の初公判 名地裁」。</ref>。実弟と岡崎高校時代の同窓生で、地元後援会を預かる事務局長の鈴木康夫は1989年11月頃、岡崎市議の間で「杉浦はケチで面倒見が悪い」との悪評が流れているのを聞き、買収工作を計画<ref name="chunichi19900417">『中日新聞』1990年4月17日付朝刊、26面、「追跡 票とカネ 杉浦氏派違反 岡崎6市議 洋服代や借金返済に 受領の金、集票に使わず 検察冒陳」。</ref>。鈴木は実弟から1,300円を受け取り、1989年12月中旬から下旬にかけ、保守系市議に対し一人当たり30万円または50万円の現金を配った<ref>『中日新聞』1990年4月24日付朝刊、27面、「杉浦氏派鈴木被告の初公判 市議買収認める 名古屋地裁」。</ref>。すぐに突き返した議員も複数いたが<ref>『中日新聞』1990年4月7日付朝刊、30面、「追跡 票とカネ 第一部、買収の現場から (5) 10年前の教訓 身を律した逮捕の屈辱」。</ref>、金を受け取った市議20人は洋服代や娘の結婚資金、借金返済、自身の後援会幹部への歳暮代などに充てた。集票活動に使った者は一人もいなかった<ref name="chunichi19900417" /><ref>『中日新聞』1990年2月27日付朝刊、31面、「ニュース前線/ 怖さ知らず金権指揮 鈴木容疑者、市長選で選対分裂 表舞台に」</ref>。
 
同年[[2月22日]]から[[3月19日]]にかけて、被買収の疑いで市議13人が逮捕され、市議7人が書類送検された<ref>『東海愛知新聞』1990年3月20日、1面、「新たに副議長を逮捕 杉浦事件 市議7人が書類送検」。</ref>。9月までに17人の市議が退職し、[[11月4日]]にその補選が行われた(翌[[1991年]]にさらに2人退職)<ref>{{Cite book|和書
|author =
|year = 1992-10-22
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|publisher = 岡崎市議会史編纂委員会
|page = 765-767
}}</ref>。「市長選のしこりで杉浦から去って行った初当選時のベテラン選対連中が、もしそのまま残っていたら、こんな素人選挙はしなかったろうに」と当時の関係者は述べている<ref name="chunichi19900226" />。岡崎地区選対の実質的な責任者を務めたのは前市議会議長の河澄亨であった<ref>『朝日新聞』1990年2月26日付夕刊、9面、「逮捕の河澄市議は地区選対の実質的責任者 杉浦氏派選挙違反」。</ref>。河澄は前回杉浦の擁立に尽力した反河澄派の市議らを選対中枢部から除外するとともに陣頭指揮に立った{{Refnest|group="注"|河澄亨は市水道局職員を経て、1979年に[[岡崎市議会]]議員に初当選した。会派「自民クラブ」に所属し[[内田喜久]]市政を支えるも、1980年の[[第36回衆議院議員総選挙]]では解散直後、内田が擁立した長男[[内田康宏|康宏]]の陣営から[[浦野烋興]]に寝返った<ref>[[木村伊量]]「全容 無謀の構図 (39)」 『朝日新聞』1980年12月12日付朝刊、三河版西。</ref><ref>木村伊量「全容 無謀の構図 (101)」 『朝日新聞』1981年4月18日付朝刊、三河版西。</ref>。1990年の総選挙では杉浦の岡崎地区選対の実質的な責任者を務めたが、同年2月25日、事務局長の鈴木康夫から50万円を受け取った容疑で他の市議とともに逮捕された<ref>『東海愛知新聞』1990年2月27日、1面、「さらに市議6人逮捕 岡崎 杉浦氏派の買収事件拡大」。</ref>。河澄は1992年の市議選で再び当選。市長選落選後の2001年9月26日、[[市街化調整区域]]における家電製品卸販売会社の施設建設をめぐって、あっせん収賄容疑で逮捕された<ref>『東海愛知新聞』2001年9月27日、1面、「河澄元岡崎市議長を逮捕 300万円あっせん収賄容疑 会社施設の建設に便宜」。</ref>。}}。そのため市議らの反発は強く、選対のぎくしゃくした関係を修復することを目的として現金がばらまかれたとも言われている<ref>『中日新聞』1990年2月26日付朝刊、31面、「杉浦氏派違反 買収工作の背景 市議への『借り』」。</ref>。
 
実の弟が逮捕されたにもかかわらず杉浦は連座制の適用を受けなかった。連座制を規定する[[公職選挙法]]251条の2は「公職の候補者又は公職の候補者となろうとする者」を対象としているが、改正前の事件当時は「公職の候補者」とのみ記されていた。また、この言葉を字義どおりに解釈する[[最高裁判所]]昭和35年2月23日判決があったことから、杉浦は買収工作時点ではまだ「公職の候補者」とは言えず、[[丹羽兵助]]と同様に起訴を免れた<ref>『朝日新聞』1990年3月16日付夕刊、12面、「空洞化の選挙違反連座制 公示前は不問」。</ref>。
 
上記事件の影響で[[1993年]]7月の[[第40回衆議院議員総選挙|総選挙]]は落選。