「ペルナンブーコ州」の版間の差分

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ゾーナ・ダ・マッタ地域では、500年近いサトウキビの連作にも耐えるマサペーと呼ばれる厚い褐色森林土層に覆われており、植民地時代初期から重要な農業地帯として栄えてきた。
 
[[画像:Serra-Talhada-vista-da-cidade.jpg|right|250px|thumb|セルトン地域の町     (Serra Talhada)]]
内陸部のセルトン地域は沿岸部に沿った山脈に雨雲を遮られ、年間降水量は場所によっては300[[ミリメートル|mm]]未満の所もあり、[[1877年]]-[[1878年]]の大旱魃では2年間雨が降らなかった。人家も疎らな荒涼たるこの地域はブラジルで最も貧しい地域と言われ、古い封建遺制の残存、盗賊団([[ランピオン]]は義賊として民衆的人気がある)の横行など負の側面を持つ反面、大地に対する人々の嘆きは数々の詩や文学、音楽([[フォホー]])として積み上げられ、独自文化の形成を見る。近年[[サンフランシスコ川]]の開発により、ペトロリーナ周辺などで灌漑農業、工業化が可能となった。
 
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植民地期以来の初期から繁栄してきた土地であり、各地に古い教会などが多い。また、植民地期以来培われた[[コロニアル]]様式と呼ばれる住民家屋も多く残存する。
 
[[画像:MosteiroDeSaoBento.jpg|right|180px|thumb|世界遺産オリンダ歴史地区]]
オランダ植民地期に発展した商人の商館を主とする[[レシフェ]]の旧市街と、古い教会建築が遺存する[[オリンダ]]の旧市街は[[世界遺産]]に指定されている(文化遺産)。また、大西洋の絶海の孤島として独特の自然環境を持つ[[フェルナンド・デ・ノローニャ]]島も[[世界遺産]]に指定されている(自然遺産)。
 
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=== 植民地時代 ===
==== パウ・ブラジルの時代 ====
[[画像:Brazil-16-map.jpg|right|180px|thumb|16世紀のブラジル絵図]]
[[ブラジル]]に上陸した[[ポルトガル]]人が最初に主要貿易品目としたのが、ブラジル東沿岸地域の森林に産するパウ・ブラジル([[ブラジルボク]])で、[[レシフェ]]とポルト・セグーロ(ES)にインディオとの交易所が設立された。パウ・ブラジルが輸出された時代は[[1500年]]頃から[[1570年]]頃まで続き、これがペルナンブーコ発展の基礎となる。<br />
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==== オランダ領ブラジル ====
[[画像:Michiel Jansz van Mierevelt - Maurits van Nassau, prins van Oranje en Stadhouder.jpg|right|180px|thumb|ナッサウ=ジーゲン伯ヨハン・マウリッツ]]
[[1581年]][[オランダ]]が独立。スペインと[[同君連合]]にあったポルトガルとも対立し、オランダの海外領土拡大の矛先が[[ブラジル]]に向けられ始める。[[1624年]]、[[オランダ]]が[[バイーア州]]に侵攻するも、1年で撤退。次いで[[1630年]][[レシフェ]]と[[オリンダ]]に侵攻し、[[オランダ領ブラジル]]が成立する。[[レシフェ]]([[オリンダ]])はオランダ領ブラジルの首都になり、オランダ西インド会社資本の元、商港都市として発展する。[[ナッサウ=ジーゲン伯ヨハン・マウリッツ]]の統治下、オランダ領ブラジルは、[[1641年]]までに[[マラニョン州]]まで版図を拡大する。<br />
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==== 相次ぐ旱魃 ====
[[画像:Caruaru-figuras-de-barro.jpg|right|180px|thumb|盗賊ランピオンと伴侶マリア・ボニータの像]]
[[1877年]]-[[1879年]]、[[1888年]]-[[1889年]]、[[1898年]]、[[1900年]]、[[1915年]]と、ペルナンブーコを含む[[ノルデスチ]](北東部)一帯で大規模な旱魃が度々発生し、この地域の困窮に拍車をかけると共に治安が崩壊。盗賊(カンゼイロ)が多発した。中には[[ランピオン]]と呼ばれる義賊も出現し、貧しい農民の側に立って大農園領主と戦った一団もおり、民衆の伝説となって今尚語り継がれている。[[ランピオン]]の思想は、現代になって[[土地なき農民の運動]](MST)にも援用されることとなる。
 
 
以降、ペルナンブーコは経済的落ち込みから歴史の表舞台への影響力を弱めていく。反中央政権的土着思想もあり、中央から経済支援を計る有力な政治家もあまり出なかったことも災いしている。