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孔祥熙の財政部長時代初期は、税収改革を行い、財政面で地方のコントロールと民衆の困窮の軽減を図った。同時に銀行体制の改編を行い、増資を通じて[[中国銀行 (中華人民共和国)|中国銀行]]や[[交通銀行]]を国民政府財政部のコントロール下に置いた。また、貨幣制度改革を行い、それまでの[[銀本位制]]を廃して[[法幣]]を発行した。さらに政府の債務の整理も行っている。これらの政策によって、国民政府は国家資本によって金融市場を制御できるようになり、当時の軍事行動に財源を提供するばかりでなく、その後の抗戦活動に財政的な供給を行うための基礎を固めた。
 
[[1936年]]、[[西安事件]]が発生すると孔祥熙は平和的な解決を強く主張した。[[中独合作]]で結ばれていた中華民国は孔祥熙を[[ドイツ]]に派遣し[[アドルフ・ヒトラー]]と会談、[[ドイツ軍]]は[[日中戦争]]を戦う中華民国軍に[[アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン]]を派遣するなど、日本と中華民国との間で大きく揺れていた。しかし中華民国に派遣されていた軍事顧問団は1938年に撤収することになった。

その後、孔は行政院長を経験した。日中初期こそ孔の財政政策に対して各界から大きな不満は見られなかったが、後期になると孔や家族が官でも民でもその権力を利用して投機を行ったり、私財を肥やしているとして大きな不満の対象となった。アメリカ人もこの正常ではない私腹の肥やし方に着目していた。[[1944年]]、[[傅斯年]]は[[国民参政会]]で米ドル公債の発行における孔の不正行為を糾弾し、ほどなくして孔は財政部長の職を免職された。さらに[[1945年]]には行政院副院長と中央銀行総裁も辞し、[[1947年]]には宋靄齢の病気を理由にアメリカに住まいを移した。

[[1948年]]には最後の中国銀行[[役員 (会社)#董事長|董事長]]の職を辞している。[[1962年]]以降、台湾にしばらく滞在することもあったが、最終的には[[1967年]]にアメリカニューヨークで病没した。
 
== 人物評価 ==