「杉浦正健」の版間の差分

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杉浦の実弟は1986年の総選挙後に兄の公設第一秘書となり、その年の清和会の忘年会で先輩秘書から裏金づくりを教えられる。自身の給料やボーナス、就職斡旋の謝礼金などを3年がかりでこつこつと貯め、[[議員会館]]の机の引き出しに1,300万円を蓄えた<ref>『中日新聞』1990年4月16日付夕刊、13面、「岡崎6市議被買収認める 汚れた集票生々しく 名地裁初公判 杉浦氏派違反」。</ref><ref>『中日新聞』1990年4月27日付夕刊、17面、「買収の趣旨は否認 選挙違反 杉浦氏実弟の初公判 名地裁」。</ref>。実弟と[[愛知県立岡崎高等学校|岡崎高校]]時代の同窓生で、地元後援会を預かる事務局長の鈴木康夫は1989年11月頃、岡崎市議の間で「杉浦はケチで面倒見が悪い」との悪評が流れているのを聞き、買収工作を計画<ref name="chunichi19900417">『中日新聞』1990年4月17日付朝刊、26面、「追跡 票とカネ 杉浦氏派違反 岡崎6市議 洋服代や借金返済に 受領の金、集票に使わず 検察冒陳」。</ref>。鈴木は実弟から1,300円を受け取り、1989年12月中旬から下旬にかけ、保守系市議に対し一人当たり30万円または50万円の現金を配った<ref>『中日新聞』1990年4月24日付朝刊、27面、「杉浦氏派鈴木被告の初公判 市議買収認める 名古屋地裁」。</ref>。すぐに突き返した議員も複数いたが<ref>『中日新聞』1990年4月7日付朝刊、30面、「追跡 票とカネ 第一部、買収の現場から (5) 10年前の教訓 身を律した逮捕の屈辱」。</ref>、金を受け取った市議20人は洋服代や娘の結婚資金、借金返済、自身の後援会幹部への歳暮代などに充てた。集票活動に使った者は一人もいなかった<ref name="chunichi19900417" /><ref>『中日新聞』1990年2月27日付朝刊、31面、「ニュース前線/ 怖さ知らず金権指揮 鈴木容疑者、市長選で選対分裂 表舞台に」</ref>。
 
同年[[2月22日]]から[[3月19日]]にかけて、被買収の疑いで市議13人が逮捕され、市議7人が書類送検された<ref>『東海愛知新聞』1990年3月20日、1面、「新たに副議長を逮捕 杉浦事件 市議7人が書類送検」。</ref>。9月までに17人の市議が退職し、[[11月4日]]にその補選が行われた(翌[[1991年]]にさらに2人退職){{Refnest|group="注"|1990年の選挙違反事件において、自民系市議会会派「自由民主クラブ」の議員24人のうち、起訴された議員は20人に及んだ。ほとんどの者が起訴事実を認める中、のちに衆議院議員となる[[中根康浩]]と中根勝美だけは長く裁判で争った。結局、中根康浩は有罪判決直前に辞職し、中根勝美は一審の有罪判決後に辞職した<ref>『東海愛知新聞』1991年8月17日、「中根康市議が辞職 岡崎 公選法違反で係争中」。</ref><ref>『東海愛知新聞』1991年12月21日、「中根勝市議が辞職 控訴も取り下げ」。</ref><ref>{{Cite book|和書
|author =
|year = 1992-10-22
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|publisher = 岡崎市議会史編纂委員会
|page = 765-767
}}</ref>。}}。「市長選のしこりで杉浦から去って行った初当選時のベテラン選対連中が、もしそのまま残っていたら、こんな素人選挙はしなかったろうに」と当時の関係者は述べている<ref name="chunichi19900226" />。岡崎地区選対の実質的な責任者を務めたのは前市議会議長の河澄亨であった<ref>『朝日新聞』1990年2月26日付夕刊、9面、「逮捕の河澄市議は地区選対の実質的責任者 杉浦氏派選挙違反」。</ref>。河澄は前回杉浦の擁立に尽力した反河澄派の市議らを選対中枢部から除外するとともに陣頭指揮に立った{{Refnest|group="注"|河澄亨は市水道局職員を経て、1979年に[[岡崎市議会]]議員に初当選した。会派「自民クラブ」に所属し[[内田喜久]]市政を支えるも、1980年の[[第36回衆議院議員総選挙]]では解散直後、内田が擁立した長男[[内田康宏|康宏]]の陣営から[[浦野烋興]]に寝返った<ref>[[木村伊量]]「全容 無謀の構図 (39)」 『朝日新聞』1980年12月12日付朝刊、三河版西。</ref><ref>木村伊量「全容 無謀の構図 (101)」 『朝日新聞』1981年4月18日付朝刊、三河版西。</ref>。1990年の総選挙では杉浦の岡崎地区選対の実質的な責任者を務めたが、同年2月25日、事務局長の鈴木康夫から50万円を受け取った容疑で他の市議とともに逮捕された<ref>『東海愛知新聞』1990年2月27日、1面、「さらに市議6人逮捕 岡崎 杉浦氏派の買収事件拡大」。</ref>。河澄は1992年の市議選で再び当選。市長選落選後の2001年9月26日、[[市街化調整区域]]における家電製品卸販売会社の施設建設をめぐって、あっせん収賄容疑で逮捕された<ref>『東海愛知新聞』2001年9月27日、1面、「河澄元岡崎市議長を逮捕 300万円あっせん収賄容疑 会社施設の建設に便宜」。</ref>。}}。そのため市議らの反発は強く、選対のぎくしゃくした関係を修復することを目的として現金がばらまかれたとも言われる<ref>『中日新聞』1990年2月26日付朝刊、31面、「杉浦氏派違反 買収工作の背景 市議への『借り』」。</ref>。
 
実の弟が逮捕されたにもかかわらず杉浦は[[連座制]]の適用を受けなかった。連座制を規定する[[公職選挙法]]251条の2は「公職の候補者又は公職の候補者となろうとする者」を対象としているが、改正前の事件当時は「公職の候補者」とのみ記されていた。また、この言葉を字義どおりに解釈する[[最高裁判所]]昭和35年2月23日判決があったことから、杉浦は買収工作時点ではまだ「公職の候補者」とは言えず、[[丹羽兵助]]と同様に起訴を免れた<ref>『朝日新聞』1990年3月16日付夕刊、12面、「空洞化の選挙違反連座制 公示前は不問」。</ref>。