「孝文王」の版間の差分

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|没年 =[[紀元前250年|前250年]][[11月14日]](旧暦10月6日)
|父 =[[昭襄王 (秦)|昭襄王]]
|母 =唐八子太后
|皇后 =[[華陽太后]]
|陵墓 =寿陵
|年号 =
}}
'''孝文王'''(こうぶんおう)は、[[中国]][[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の[[秦]]の[[王]]。即位前の称号は'''安国君'''(あんこくくん)。[[姓]]は'''嬴'''(えい)、[[諱]]は'''柱'''(ちゅう)。子に[[荘襄王 (秦)|荘襄王]]、子傒([[庶子]])ら20人前後
 
== 略歴 ==
[[紀元前267年]]、昭襄王の長子である[[悼太子 (秦国)|太子悼]]が人質となっていた[[魏 (戦国)|魏]]で亡くなった。
[[紀元前265年]]、昭襄王の後継の太子として安国君が選ばれた。
 
安国君には20人以上の子がおり、その中にも後の太子となる[[荘襄王 (秦)|子楚]]もいた。子楚は母の[[夏姫 (秦孝文王)|夏姫]]が安国君から気にいられなくなり、[[趙 (戦国)|趙]]の人質として捨て駒のごとく出されていた。それを見かけた大商人の[[呂不韋]]が子楚に投資をして趙での名声を上げ、安国君に気にいられていたが子供のいなかった[[華陽太后|華陽夫人]]に対して呂不韋が養子として名声がある子楚をもらい受けるように助言をし、それを華陽夫人が安国君に伝え安国君は太子として子楚を指名した。
 
[[紀元前251年]]秋、父の昭襄王が死去し、安国君が孝文王となり、母親の唐八子が唐太后、華陽夫人が華陽后、子楚が太子となった。

[[紀元前250年]]10月、父の喪が明けて正式に即位したが、3日後に53歳で死去した。
 
== 参考文献 ==