「范陽邁2世」の版間の差分

加筆、出典追加
(ナビゲーションテンプレート追加)
(加筆、出典追加)
|画像=
|説明=
|国号=[[チャンパ王国]]
|王朝=第3王朝
|在位期間=[[421425年]]? - [[446年]]
|生年=[[402407年]]?
|没年=[[446年]]
|諱=范咄
|父=[[范陽邁1世]]
|母=
|注釈=
}}
'''范陽邁2世'''(はんようまい2せい、{{Lang-vi|Phạm Dương Mại II}}, [[402407年]]? - [[446年]])は、[[チャンパ王国]]({{仮リンク|林邑国|zh|林邑}})第3王朝の第2代[[諸王の王|国王]](在位:[[421425年]]?<ref name="Sharma107">{{Harvnb|Sharma|p=107}}</ref> - [[446年]])。
 
== 生涯 ==
[[范陽邁1世]]の子<ref name="Sharma107"/><ref name="Coedes57">{{Harvnb|Cœdès|p=57}}</ref>。初名を'''范咄'''({{Lang-vi|Phạm Xót}})といったが、父王の死後に即位すると、父にあやかって「陽邁」と改名した。[[424430年]]に[[南北朝時代 (中国)|南朝]][[宋 (南朝)|宋]]の[[日南郡]]・[[九徳郡]]に侵攻遣使たが、[[交州]][[刺史]]の杜弘文([[杜慧度]]の長男)に撃退された。[[430年]]に宋に遣使して交州と睦まじくしないことを伝え、許しを求めた。翌[[431年]]には百隻余りの船団をもって[[日南郡]]に侵攻した<ref name="Coedes57"/>婚儀に出かけて不在であった時に、交州[[刺史]]の阮弥之の反撃を受け、その従弟の奮威将軍阮謙之率いる軍に{{仮リンク|クルン|vi|Khu Túc}}を包囲された<ref name="Coedes57"/>が、暴風雨の影響もあって持ちこたえることができた<ref name="Coedes57"/>。范陽邁2世は交州を攻めようとして<ref name="Coedes57"/>[[扶南国|扶南]][[カンボジア君主・国家元首一覧|王]]{{仮リンク|シュリ・インドラヴァルマン1世|ru|Шри Индраварман}}に援兵を求めたが、断られた<ref name="Coedes57"/>。[[432年]][[5月 (旧暦)|5月]]には宋に朝貢の使者を送り、以前のように日南郡をチャンパに帰属させるように求めたが、[[文帝 (南朝宋)|文帝]]に道が遠いことを理由に拒絶された。以降も[[433年]][[436年]][[437年]][[440年]]に朝貢を行ったがなおも交州への侵攻をやめなかった。
 
[[446年]]2月、宋の[[文帝2月 (南朝宋旧暦)|文帝2月]]、文帝宋に朝貢しながらも物品が少なく、さらにはしばしば交州を劫掠していることを理由に交州刺史の{{仮リンク|檀和之|zh|檀和之}}に林邑討伐を命じ、振武将軍[[宗カク|宗{{Lang|ko|愨}}]]の率いる軍が侵攻してきた<ref name="Coedes57"/>。宋軍が先鋒を蕭景憲としたのを聞いて恐れた范陽邁2世は金銀を贈って、侵略した日南郡の民戸を返そうとしたが、大臣の{{Lang|zhko|䓯}}僧達(『[[南斉書]]』では{{Lang|viko|昪}}僧達、『[[南史]]』では{{Lang|viko|愺}}僧達とする)に諌められて翻意した。帰順する気があるか宋軍から府戸曹参軍の姜仲基が遣わされてきたが、これを捕らえたために檀和之の怒りを招いた。大帥の{{仮リンク|范扶龍|zh|范扶龍}}をクルンのりにつかせ、クルンが宋軍に包囲される<ref name="Coedes57"/>と将軍の{{仮リンク|范ヒ沙達‎|label=范{{Lang|ko|毗}}沙達|zh|范昆沙達}}を范扶龍の救援に差し向けた。しかし、范{{Lang|ko|毗}}沙達は宗{{Lang|ko|愨}}の伏兵に遭って敗北し、[[5月 (旧暦)|5月]]には范扶龍も敗死してクルンは陥落した<ref name="sakurai64">{{Citation|和書|last=桜井|first=由躬雄|contribution=南シナ海の世界|title=東南アジア史 I 大陸部|pages=64}}</ref>
さらに勢いに乗じた宋軍が王都{{仮リンク|シンハプラ|vi|Simhapura}}に迫ると、范陽邁2世は[[戦象]]を出して応戦した。しかしこれも宗{{Lang|ko|愨}}の機転によって宋軍が[[ライオン|獅子]]を模ったものを立てると、象は驚いて逃走したために大敗を喫した。范陽邁2世はその子とともに逃亡し、シンハプラも宋軍の手に落ちて<ref name="Coedes57"/>黄金数十万金を奪われた<ref name="sakurai65">{{Citation|和書|last=桜井|first=由躬雄|contribution=南シナ海の世界|title=東南アジア史 I 大陸部|pages=65}}</ref>。宋軍が引き上げた後にシンハプラに戻ったが、家屋が荒らされて人もまばらな有様を見て憤り、心臓発作を引き起こして死去した<ref name="Coedes57"/>
 
== 出典 ==
{{Reflist}}
 
== 参考資料 ==
*{{Cite book|author=[[ジョルジュ・セデス|George Cœdès]]|date=May 1, 1968|title=The Indianized States of South-East Asia|publisher=[[ハワイ大学システム|University of Hawaii]][[:en:University of Hawaii Press| Press]]|isbn=978-0824803681|ref={{SfnRef|Cœdès}}}}
*{{Cite book|author=Geetesh Sharma|year=2010|title=Traces of Indian Culture in Vietnam|publisher=[[:en:Rajkamal Prakashan|Rajkamal Prakashan]]|isbn=978-8190540148|ref={{SfnRef|Sharma}}}}
*{{Cite book|和書|editor=[[石井米雄]]、[[桜井由躬雄]]編|title=東南アジア史 I 大陸部|series=新版 世界各国史 5|publisher=[[山川出版社]]|date=1999年12月20日|isbn=978-4634413504}}
*『[[宋書]]』巻九十七 列伝第五十七 夷蛮
*『[[南斉書]]』巻五十八 列伝第三十九 林邑国
*『[[梁書]]』巻五十四 列伝第四十八 林邑国
*『[[南史]]』巻七十八 列伝第六十八 林邑国
*『{{仮リンク|越史略|zh|越史略}}』巻上 歴代守任
*『[[大越史記全書]]』外紀巻之四 属呉晋宋斉梁紀
*『[[水経注]]』巻三十六 鬱水
 
{{先代次代|[[チャンパ王の一覧|チャンパ王]]|第3王朝第2代:<br>[[421425年]]? - [[446年]]|[[范陽邁1世]]|[[范神成|デーヴァニカ]]}}
{{Vietnam-stub}}
{{History-stub}}