「久松勝行」の版間の差分

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ところが嘉永2年([[1849年]])7月、[[江戸幕府|幕府]]より預かっていた罪人の[[神代徳次郎]]に脱走されるという失態を犯した。神代は8月に[[京都]]で捕縛されたが、この失態により江戸[[町奉行]][[遠山景元]]によって12月19日に[[閉門]]処分に処され、家臣団も処罰の対象となった。さらに領地替の名目で領地を替えられて、実高において2000石の減封となった。嘉永3年([[1850年]])5月22日に閉門処分を解かれている。
 
[[安政]]2年([[1855年]])2月2日に[[大坂城|大坂]][[加番]]に任じられ、[[文久]]2年([[1862年]])閏8月19日に[[二条城]]定番に任じられる。[[幕末]]期は九十九里直忠組の反乱鎮圧で功を挙げ、元治元年([[1864年]])7月21日に大蔵少輔に遷任する。[[慶応]]3年([[1867年]])4月に[[日光祭礼奉行]]に任じられた。
 
[[戊辰戦争]]時の慶応4年([[1868年]])2月、[[徳川将軍家]]との訣別を示すために姓を松平から久松に改めた。明治2年([[1869年]])6月の[[版籍奉還]]で多胡[[知藩事|藩知事]]に任じられるが、直後の8月に死去した。享年38。家督は長男の[[久松勝慈|勝慈]]が継いだ。
 
 
{{田子藩主|久松松平氏|7代|1848年 - 1869年}}
 
{{DEFAULTSORT:ひさまつ かつゆき}}
[[Category:久松松平氏|かつゆき]]
[[Category:多胡久松子爵家|かつゆき]]
[[Category:多胡藩主]]
[[Category:譜代大名]]
[[Category:幕末の大名]]
[[Category:日本の華族]]
[[Category:久松多胡松平|かつゆき]]
[[Category:多胡久松子爵家|かつゆき]]
[[Category:1832年生]]
[[Category:1869年没]]