「1972年のメジャーリーグベースボール」の版間の差分

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この年のシーズン前に選手会とオーナー側との交渉が進まず、メジャーリーグ史上初の全球団選手が参加したゼネストに突入し、4月4日にシーズン開幕の予定であったのがストライキで9日間試合が行われなかった。3年前も春のキャンプをボイコットしたがペナントレースの公式試合を全球団選手がボイコットしたのはこの年が最初であった。
 
3年前に結んだ労使協定の改定時期を迎えて、前年秋から交渉に入ったが、年金基金への拠出金の増額と健康保険の財源問題が暗礁に乗り上げた。3年前の1969年のシーズン前に年金基金への野球機構からの拠出金を545万ドルにすることで妥結したが、今回は選手会が701万2,000ドルに増額を要求し、オーナー側は49万ドルの上乗せで594万ドルの回答をして合意に至らなかった。この時に[[マービン・ミラー]]事務局長は各球団を回り、全球団の選手たちとオーナー側が選手会の要求に応じない場合はストライキに突入することを確認していた。そして開幕直前の4月1日にオーナー側にストライキを通告した。メジャーリーグに5年在籍した選手は65歳になれば月額772ドル支給される、10年在籍すれば月額1,545ドル、15年在籍すれば月額1,745ドル、20年在籍すれば月額1,945ドルの支給額となっている。しかしこの時代は物価高でそれまでの545万ドルの拠出金だけでは賄いきれなくなることから選手会が強気に出た。しかし、一方で10万ドルを超える高額年俸の選手が続出していた中でのストライキでは、アメリカ国内の世論は必ずしも選手側を支持するものではなかった。カージナルスのオーナーがチーム力が低下しても高額年俸の選手を次々と放出したのは、年俸をアップしても次々と要求額が増えてファンが必ずしもかつてほど選手を敬愛はしていない見ていたからである。[[カート・フラッド事件]]はその狭間で起こった事態であった。
 
結局連邦政府が仲介に入り、調停の結果どちらにも決着が付かないまま9日間のストは終わり、そのに中止になった全86試合は後日われずうこともなく、選手はスト参加で賃金をカットされて全く補填が無いまま4月15日にシーズン開幕となった。本来この時に結ぶ予定だった新しい労使協定は翌年までずれ込んだ。
 
アメリカンリーグ
*東地区は、最後までオリオールズ、レッドソックス、オリオールズ、ヤンキース、タイガースの優勝争いとなり、9月11日時点で首位レッドソックスから4位タイガースまで2ゲーム差であった。そして10月1日終了時点で残り3試合を残したレッドソックスが0.5ゲーム差で2位タイガースとの対戦となり、1試合勝てば地区優勝であったが、タイガースのロリッチ投手に15奪三振で敗れて首位が逆転し、次の同じカードでの対戦もタイガースが勝って86勝69敗、レッドソックスは84勝70敗となり、最終戦を待たずにタイガースの地区優勝が決まった。普通であればレッドソックスの残り試合が1試合多いはずであったが、シーズン最初のスト期間中の試合は再試合しないという労使間の取り決めがあって、試合数が不均等であったことがタイガースに幸運を呼んだ。[[ミッキー・ロリッチ]](22勝)、マクレインとの交換トレードで獲得したジョー・コールマン(19勝)、8月にフィリーズからきたウッディ・フライマン(10勝)と投手陣がずば抜けて強く、[[ノーム・キャッシュ]]と[[アル・ケーライン]]がまだ健在であった。西地区は前年地区優勝したアスレチックスが、前年24勝した[[ヴァイダ・ブルー]]が契約交渉のもつれから5月までマウンドに立つことが無く6勝に終わったが[[キャットフィッシュ・ハンター]](21勝)、ケン・ホルツマン(19勝)、[[ローリー・フィンガーズ]](11勝・21セーブ)にブルームーン・オドムらが活躍して投手陣が揃い、打線も[[レジー・ジャクソン]](本塁打25本)中堅手、サル・バンドー三塁手の不振を[[ジョー・ルディ]](打率.305)左翼手、マイク・エプスタイン(本塁打26本)がカバーして西地区を連覇した。[[リーグチャンピオンシップシリーズ]]は5試合制で初めて2勝2敗から第5戦にもつれ込み、ジーン・テナス捕手の勝ち越し打をブルームーン・オドムとヴァイダ・ブルーの継投でしのぎ、[[コニー・マック]]時代の1931年のフィラデルフィア・フィリーズ以来実に41年ぶりのリーグ優勝で、カンザスシティからオークランドへ移ってからは初めてのリーグ優勝となった。
*個人タイトルは、首位打者はツインズの[[ロッド・カルー]] (打率.318)で3年ぶり2度目で、カルーはこれ以降1978年まで途中1年を除いて6シーズン首位打者となり特に1977年には4割に近い打率を残した。本塁打王と打点王はホワイトソックスの[[ディック・アレン]]<ref>ディック・アレンは、 3年前の1969年秋にカージナルスの[[カート・フラッド]]らとの交換トレードでフィリーズからカージナルスに移り、その時にフラッドはこのトレードを拒否して訴訟に持ち込んだ。そしてアレンはわずか1年でドジャースに放出され、そして前年12月に[[トミー・ジョン]]らとの交換トレードでドジャースからホワイトソックスに移って来た選手である。この時にドジャースに移ったトミー・ジョンはこの2年後に左肘の腱を断裂する大怪我をして[[フランク・ジョーブ]]博士の移植手術を受けて奇跡的にマウンドに戻ることが出来て、後に[[トミー・ジョン手術]]として球史にその名を残した。ディック・アレンにとって2つのトレードで球史に残る2人の選手との交換となった。</ref>(本塁打37本・打点113)で、優勝したオリオールズからは[[バート・キャンパネリス]] (盗塁52)の2年ぶり6度目の盗塁王だけであった。最多勝はインディアンスの[[ゲイロード・ペリー]] (24勝)とホワイトソックスの[[ウィルバー・ウッド]] (24勝)、最優秀防御率はレッドソックスの[[ルイス・ティアント]] (防御率 1.91)、奪三振はエンゼルスの[[ノーラン・ライアン]] (奪三振 329)でメッツから移籍したこの年に急速に力を伸ばし初のタイトルを得るとともに1990年までノーヒットノーランを7回記録し通算11回の奪三振と2回の最優秀防御率を獲得する最初の年となった。リーグMVPは[[ディック・アレン]]が選ばれ、サイ・ヤング賞は[[ゲイロード・ペリー]] が選ばれた。