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== 歴史 ==
クレヴァ城はリトアニア大公[[ゲディミナス]]が、[[ヴィリニュス]]を守る拠点の一つとして築かせた城だと考えられている<ref>{{Cite book |和書 |author=アルフォンサス・エイディンタス等 |others=梶さやか、重松尚訳 |year=2018 |title=リトアニアの歴史 |publisher=明石書店 |page=55|isbn=978-4-7503-4643-4}}</ref>。史料にクレヴァ城への言及が見られるのは、1330年代からである<ref name="ved">{{Cite web |url=https://vedaj.by/index.php/en/towns/grodno/smarh/kreva |title=Kreva |publisher=VEDAJ.BY |accessdate=2019-02}}</ref>。1380年代初頭にリトアニア大公国で起きた[[リトアニアの内戦 (1381年-1384年)|内戦]]の舞台にもなり、[[1382年]]にリトアニア大公[[ケーストゥティス]]が城の地下牢に投獄され、甥の[[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヨガイラ]](ポーランド王ヴワディスワフ2世)の命令で殺害された。1385年にヨガイラと[[ポーランド国王|ポーランド王女]][[ヤドヴィガ (ポーランド女王)|ヤドヴィガ]]の結婚を取り決める契約([[クレヴォ合同]])がこの城で締結される。
 
16世紀にクレヴァ城は[[モスクワ大公国]]や[[タタール|タタール人]]の包囲に何度か晒される<ref name="vet">{{Cite web |url=https://vetliva.com/tourism/what-to-see/krevskiy-zamok/ |title=Kreva Castle |publisher=vetliva |accessdate=2019-02}}</ref>。18世紀末からクレヴァ城は重要性を失っていき、無人の城になる<ref name="ved"/>。同時に城の保存状態も悪化し、19世紀には近隣の人間が城に使われていた石材を持ち出すことも多々あった<ref name="ved"/>。[[第一次世界大戦]]の際にクレヴァは戦場となるが、クレヴァ城でも戦闘が行われた。
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往時のクレヴァ城は城壁と濠で守られ、城壁の内側には二つの塔、多くの木造住居、池が置かれていた。城壁の高さは約13m、厚さは約3mであり、一辺の長さが80-105mの四辺形を作り、材料には天然の石材とレンガが使われていた<ref name="ved"/>。北側の隅に建てられていた塔の高さは25mに達していたと推定され、王族の居住地や防御施設として使用されていた<ref name="ved"/>。北側の塔の対角には16mほどの塔が建てられていたが、いずれも姿をとどめておらず、基底部のみが残っている<ref name="ved"/>。
 
クレヴァ城には[[ヴィリニュス]]に通じる地下道、壁の中に生きたまま埋められた少女の伝説が残されているが、伝説を裏付ける証拠は見つかっていない<ref name="vet"/>。
 
== 参考文献 ==