「宝亀の乱」の版間の差分

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しかし、政府側の混乱はさらに続く。乱からおよそ半年後の9月23日、[[参議]]であった[[藤原小黒麻呂]]が[[正四位下]]の位を授けられ、持節征東大使に任命された{{sfn|鈴木 (2008)|p=123}}。節刀を授けられるのは天皇の代理人であることの証であるため、一つの征討使の中に二人以上ということはあり得ず、この時に赴任しなかった前征東大使藤原継縄だけでなく、副使大伴益立の節刀も褫奪されたとみられる{{sfn|鈴木 (2008)|p=123}}。
 
結局のところ大伴益立が具体的な軍事行動に着手できなかったのも、人員、軍糧、武具のいずれもが不足していたからであると考えられている{{sfn|鈴木 (2008)|p=123}}。更に副使でありながら異例の節刀を授けられたものの、節刀を持たないながらも同格である副将軍紀古佐美を従えねばならず、益立の指揮官としての権威は不十分であった。益立を更迭し高位高官の藤原小黒麻呂をあらためて征東大使に任じた背景には、このことを考慮した可能性が考えられる{{sfn|鈴木 (2008)|p=123}}。結局益立は征東副使から更迭されたばかりか、翌年の天応元年([[781年]])5月27日には陸奥守も紀古佐美に交代させられ、9月26日には従四位下も剥奪される処分が下されてしまった{{refnest|group=原典|name=『続日本紀』天応元年九月辛巳条|『続日本紀』天応元年九月辛巳条}}。彼の死後、名誉が回復され従四位下に復されるのは実に56年後の[[承和 (日本)|承和]]4年([[837年]])、益立の子である[[大伴野継]]の熱心な訴えによってである{{refnest|group=原典|『[[続日本後紀]]』承和四年五月丁亥条}}{{sfn|鈴木 (2008)|pp=123-124}}。
 
しかし、代わった藤原小黒麻呂による軍事行動も難航することになる。小黒麻呂の着任後とみられる10月22日には「今年は征討すべからず」と奏上しているが、光仁天皇はこれを厳しく譴責し、10月29日にあらためて征夷の実施を厳命している{{refnest|group=原典|『続日本紀』宝亀十一年十月巳未条}}{{sfn|鈴木 (2008)|pp=124-125}}{{sfn|工藤 (2011)|p=132}}。これにより小黒麻呂も具体的な行動に着手せざるを得なくなり、12月10日には2,000の兵を動員して、「鷲座・楯座・石沢・大菅屋・柳沢等の五道」を塞ぎ、「賊」の要害を遮断したと報告している{{sfn|鈴木 (2008)|p=125}}{{sfn|工藤 (2011)|pp=132-133}}。