「内藤政養」の版間の差分

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| 兄弟 =
| 妻 = 正室:[[阿部正備]]の娘
| 子 = 娘([[内藤政潔]]正室)、娘([[堀内宗平]]室)<br/>養嗣子:'''''[[内藤政憲|政憲]]'''''
| 特記事項 =
}}
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安政4年(1857年)7月7日、第11代藩主・[[内藤政恒|政恒]]の三男として生まれる。幼名は長寿麿。政恒は政養が生まれる以前に養子の[[内藤政敏|政敏]]を後継ぎにしていたため、兄2人の夭折の後に生まれた政養は政敏の養子となった。[[文久]]3年([[1863年]])8月19日、養父政敏の死去により家督を継いだ。
 
[[慶応]]4年([[1868年]])4月3日、新政府軍から会津攻撃支援の命令を受ける。しかし、同年5月、[[奥羽越列藩同盟]]に参加した。政養は12歳ながら、自ら戦場に立って奮戦したという。同年6月29日、新政府軍の攻撃により湯長谷陣屋を攻略される。政養は仙台城下に避難する。同年9月24日、新政府軍に降伏・謝罪を申し入れる。同年9月27日、新政府軍に降伏を認められて、謹慎を命じられる。同年10月10日、東京に移り、延岡藩邸に幽閉される。明治元年(1868年)12月7日、政養は新政府に抵抗したとして、養子の[[内藤政憲|政憲]]に[[家督]]を強制的に譲らされた上で隠居することとなり、所領も1000石削減の1万4000石に減らされた。明治2年(1869年)9月28日、謹慎をとかれる。
同年9月24日、新政府軍に降伏・謝罪を申し入れる。同年9月27日、新政府軍に降伏を認められて、謹慎を命じられる。同年10月10日、東京に移り、延岡藩邸に幽閉される。明治元年(1868年)12月7日、政養は新政府に抵抗したとして、養子の[[内藤政憲|政憲]]に[[家督]]を強制的に譲らされた上で隠居することとなり、所領も1000石削減の1万4000石に減らされた。明治2年9月28日、謹慎をとかれる。
 
明治44年(1911年)3月6日に死去した。享年55。
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[[Category:幕末の大名]]
[[Category:1857年生]]