「ピョートル3世 (ロシア皇帝)」の版間の差分

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皇太子ピョートルの『奇行』の数々は、これまで専門家の間でも定説として長く語られ続けていた。しかしそれは「怠惰で知能が低い」「[[:ru:Русофобия|ルソフォビア]]([[反露]])」と印象付けるためのクーデター側による[[プロパガンダ]]である可能性が高いと、{{仮リンク|アレクサンドル・ミリニコフ|ru|Мыльников, Александр Сергеевич}}以降多くの研究者が指摘している。
上述の彼が10代で既に[[アルコール依存症]]だったという話も、彼を『惨めな酔っ払いのホルシュタイン兵士』と嘲っていた[[エカチェリーナ2世]]による作話だと考えられている<ref>エカチェリーナは1753年11月1日、モスクワのゴロヴィンスキー宮殿(現{{仮リンク|エカテリーナ宮殿(モスクワ)|ru|Екатерининский дворец (Москва)|en|Catherine Palace (Moscow)}}で火災が起きた際、ピョートルの寝室から運び出された家具の中はワインで一杯だったという話を自叙伝に記しているが、これも恐らく作話であろう。11月のモスクワでは室内に保存されたワインは凍るのである。ワインは地下のワインセラーで温度管理される事をエカチェリーナは知らなかったと思われる。</ref>。ピョートルの最も身近で彼を良く知っていた養育係シュテリン(1785年没)は回顧録を残す際、保身に走り真実を著さなかったのである<ref>{{cite web|url=https://histrf.ru/lyuboznatelnim/history-delusions/b/pietr-iii-byl-poloumnym|title=Петр ΙΙΙ был полоумным|date=2014-09-07|publisher=История России|accessdate=2019-02-11}}</ref>。
 
=== 結婚 ===
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1762年7月9日(旧暦6月28日)、翌日はピョートルの[[聖名祝日]]であり、エカチェリーナ主催の祝賀会がペテルゴフで盛大に行われる予定であった。その祝賀会について意見を求められたピョートルはエカチェリーナに会うため、オラニエンバウムからペテルゴフに出向いた。しかし、そこに妻の姿は無かった。エカチェリーナは早朝、グリゴリー・オルロフの弟で同じく近衛士官の[[オルロフ家#アレクセイ・グリゴリエヴィチ・オルロフ|アレクセイ・オルロフ]]から「準備万端整った」と、クーデターを今日実行に移すと知らされ、急遽ペテルブルクに戻っていた。そしてピョートル不在の隙を突く形で近衛連隊<ref>近衛連隊はイズマイロフスキー、セミョノフスキー、プレオブラジェンスキーの3連隊があり、プレオブラジェンスキー連隊はクーデターに参加しなかった。</ref>が{{仮リンク|宮廷クーデター (1762年)|ru|Дворцовый переворот 1762 года|label=クーデター}}を敢行した。近衛連隊はこれまで幾度となく繰り返された皇帝の交替、宮廷革命の度に主役を担ってきた。今回、エリザヴェータ時代の緑色の軍服に着替えた近衛連隊は、グリゴリー、フョードル、アレクセイのオルロフ兄弟が中心となって動いた。エカチェリーナ擁立に大いに貢献したグリゴリー・オルロフは、エカチェリーナ女帝の下で権勢をほしいままにする事になる。他に有力な政治家・将官らも早くからクーデターの準備に加担していた。[[ニキータ・パーニン]]、{{仮リンク|ミハイル・ヴォルコンスキー|ru|Волконский, Михаил Никитич}}、{{仮リンク|キリル・ラズモフスキー|ru|Разумовский, Кирилл Григорьевич}}らである。中でもニキータ・パーニンはピョートルの外交政策に強く反対していた。
 
全軍がエカチェリーナに忠誠を誓い、[[カザン聖堂]]で礼拝が行われ、エカチェリーナの即位および皇位継承者がパーヴェルである事が宣言された。エカチェリーナは冬宮殿にき、元老院と聖務会院も即位を承認したが、大宰相ヴォロンツォフは自分の姪と結婚することを公にしていたピョートルに義理立てしエカチェリーナに忠誠を誓うことを拒否、自宅に軟禁された。
 
クーデターとエカチェリーナ即位の報に驚愕、狼狽したピョートルは側近の老将軍[[ブルクハルト・クリストフ・フォン・ミュンニヒ|ブルクハルト・ミュンニヒ]]から即刻[[クロンシュタット]]<ref>ロシア軍が駐屯している[[ポメラニア]]という説もある。</ref>(ペテルブルク沖にある島。要塞と海軍基地がある)へ避難するよう助言されたが、これを拒否、オラニエンバウムの{{仮リンク|ペテルシュタット|ru|Петерштадт|label=遊戯要塞}}に立て籠もり、私兵であるホルシュタインの守備隊に防衛させる作戦をとった。同日夕、エカチェリーナと近衛連隊が大挙してオラニエンバウムに向かって来ていると知ると、作戦を放棄、ヴォロンツォヴァなど女性を含む廷臣たちと共に[[ガレー船]]でクロンシュタットに向かったが、クロンシュタットの部隊は既にクーデター側に寝返っていた。接近するピョートルの船に「引き返さなければ発砲する」と岸から警告してきたため、船は係留も諦め、やむなく引き返した。(この時期は[[白夜]]であり、日没は午後10時を過ぎ、日没後も薄明が長く続く事に留意されたい)。