「井上就貞 (戦国武将)」の版間の差分

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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 井上就貞
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== 生涯 ==
[[井上氏#安芸井上氏|安芸井上氏]]の[[井上元貞]]の次男として生まれる。[[毛利元就]]に仕え、合戦で度々たびたび武功を挙げて[[感状]]を与えられた。また、山口町奉行に任じられている。
 
[[永禄]]12年([[1569年]])7月、[[吉川元春]]や[[小早川隆景]]が率いる毛利軍と[[大友氏]]の戦い([[多々良浜の戦い (戦国時代)|多々良浜の戦い]])が北九州で続く中、[[尼子勝久]]や[[山中幸盛]]らの尼子氏再興軍が[[出雲国]]へ侵入した。さらに同年[[10月11日 (旧暦)|10月11日]]に[[大友宗麟]]の客将だった[[大内輝弘]]が宗麟の後援を受けて[[周防国]]へ侵攻した([[大内輝弘の乱]])。
 
翌[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]、輝弘は[[秋穂町|秋穂]]から[[山口市|山口]]へ侵攻したため、わずかな兵を率いて就貞が平野口を、[[信常元実]]が[[小郡町|小郡口]]を守備し、就貞の軍は糸根峠で大内軍と遭遇して激戦を繰り広げたが、数に勝る大内軍に衆寡敵せず、就貞は戦死した。
 
元就と輝元は就貞の死を大いに嘆き、元就は就貞の兄・[[井上元継|元継]]へ度々たびたびそのことを述べており、[[元亀]]元年([[1570年]])[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]に就貞の娘に[[周防国]][[吉敷郡]][[小鯖村|小鯖]]のうちの15石を与えた。また、就貞には男子がいなかったため、兄・元継の子である[[井上元忠|元忠]]を就貞の娘と婚姻させ、天正6年([[1578年]])[[1月23日 (旧暦)|1月23日]]に就貞の家督と所領<ref>この時に元忠が相続したのは、[[安芸国]]では入江鹿原名の田1町5段大・畠2段、守常名の田6段小、山里白砂の田1町5段、矢野郷の16貫足と反銭免除。[[周防国]]では[[秋穂町|秋穂庄]]の28石5斗足、秋穂庄の代官役と塩浜役、山田郷の6石足、[[小鯖村|小鯖庄]]の15石足と出米4石。</ref>を相続させた。
 
== 脚注 ==
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[[Category:安芸井上氏|なりさた]]
[[Category:安芸国の人物]]
[[Category:周防国の人物]]
[[Category:戦国時代に戦死した人物]]
[[Category:16世紀生]]