「ピョートル3世 (ロシア皇帝)」の版間の差分

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|継承形式 =
|配偶者1 =[[エカチェリーナ2世]]
|子女 =[[パーヴェル1世]]、{{仮リンク|アンナ・ペトロヴナ (1757-1759)|ru|Анна Петровна (дочь Екатерины II)|label=アンナ・ペトロヴナ}}
|王家 =[[ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家]]
|王朝 =[[ロマノフ朝|ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ朝]]
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=== 生い立ち ===
[[File:Carolus Petrus Ulricus Princeps Holsatia.jpg|left|150px|thumb|幼少期のカール・ペーター・ウルリヒ]]
[[File:Elizabeth of Russia by L.Caravaque (1750, GRM).jpg|right|thumb|ロシア女帝エリザヴェータ(1750年、[[ルイ・カラヴァク]]作)]]
1728年2月21日、ドイツの[[キール (ドイツ)|キール]]で、[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国|ホルシュタイン=ゴットルプ]][[シュレースヴィヒとホルシュタインの統治者一覧|公]][[カール・フリードリヒ (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公)|カール・フリードリヒ]]と、[[ピョートル1世|ピョートル大帝]]の長女[[アンナ・ペトロヴナ]]の間に生まれた<ref name="EB1911">{{Cite EB1911|wstitle=Peter III.}}</ref>。父方の曽祖父はスウェーデン王[[カール11世 (スウェーデン王)|カール11世]]、父の従弟にスウェーデン王[[アドルフ・フレドリク (スウェーデン王)|アドルフ・フレドリク]]がいる。母アンナはペーターを産んで間もなく[[産褥]]で死去した<ref>生まれたばかりのペーターが洗礼を受けた数日後、城の前で花火が上げられたが、その際火薬箱に火が回り大勢の死傷者が出た。ペーターの不吉な前兆だと言う者がいたが、すぐに大きな不幸が訪れた。侍女たちが「体に障る」と引き止めたにもかかわらず、母・アンナは「私達ロシア人はあなた方のように甘やかされていない」と笑い、非常に冷たい風の吹き付ける開け放った窓辺に立ち、花火と灯火を見ていた。そして風邪を引き高熱を出して10日後に亡くなった。夏、ペテルブルクから迎えに来た帆船に乗せられ、アンナの遺体は故国に帰って行った。(アレクサンドル・ミリニコフ著「ピョートル3世」よりヤコブ・シュテリンの回想録)</ref>。
 
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=== ロシア皇太子として===
[[File:Зимний дворец Петра I - фрагмент Махаева.jpg|thumb|right|ピョートルが来た当時の[[冬宮殿]]。木造だったが、1754年から現行の冬宮殿の建設が始まる。絵画は[[エルミタージュ美術館]]所蔵。]]
[[File:Summer Palace St Petersburg.jpeg|thumb|right|エリザヴェータ女帝の{{仮リンク|エリザヴェータの夏の宮殿|ru|Летний дворец Елизаветы Петровны|en|Summer Palace (Rastrelli)|label=夏の宮殿}}(1756年)。モイカ運河畔に建てられていた。]]
[[File:Equestrian portrait of Peter III by Grooth (1742-44 (?), Russian museum).jpg|right|thumb|ロシアに来た頃のピョートル(1742~44年?)?、{{仮リンク|ゲオルク・クリストフ・グロート|de|Georg Christoph Grooth}}作)]]
1742年2月5日、13歳のペーターは[[ロシア帝国]]の首都[[サンクトペテルブルク]]に連れて来られた。
 
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皇太子ピョートルの『奇行』の数々は、これまで専門家の間でも定説として長く語られ続けていた。しかしそれは「怠惰で知能が低い」「[[:ru:Русофобия|ルソフォビア]]([[反露]])」と印象付けるためのクーデター側による[[プロパガンダ]]である可能性が高いと、{{仮リンク|アレクサンドル・ミリニコフ|ru|Мыльников, Александр Сергеевич}}以降多くの研究者が指摘している。
上述の彼が10代で既に[[アルコール依存症]]だったという話も、彼を『惨めな酔っ払いのホルシュタイン兵士』と嘲っていた[[エカチェリーナ2世]]による作話だと考えられている<ref>エカチェリーナは1753年11月1日、モスクワのゴロヴィンスキー宮殿(現{{仮リンク|エカテリーナ宮殿 (モスクワ)|ru|Екатерининский дворец (Москва)|en|Catherine Palace (Moscow)|label=エカテリーナ宮殿}}で火災が起きた際、ピョートルの寝室から運び出された家具の中はワインで一杯だったという話を自叙伝に記しているが、これも恐らく作話であろう。11月のモスクワでは室内に保存されたワインは凍るのである。ワインは地下のワインセラーで温度管理される事をエカチェリーナは知らなかったと思われる。</ref>。ピョートルの最も身近で彼を良く知っていた養育係シュテリン(1785年没)は回顧録を残す際、保身に走り真実を著さなかったのである<ref>{{cite web|url=https://histrf.ru/lyuboznatelnim/history-delusions/b/pietr-iii-byl-poloumnym|title=Петр ΙΙΙ был полоумным|date=2014-09-07|publisher=История России|accessdate=2019-02-11}}</ref>。
 
=== 結婚 ===
[[ファイル:Peter III and Catherine II by Grooth (copy in Odessa).jpg|right|thumb|ピョートルとエカチェリーナ、{{仮リンク|ゲオルク・クリストフ・グロート|de|Georg Christoph Grooth}}作、1745年頃。]]
[[File:Ораниенбаум. Дворец Петра Федоровича. Вид с северо-востока.jpg|thumb|right|結婚の際に与えられたオラニエンバウムの宮殿。この後2年をかけて修復され、現在では往時の美しさを取り戻している<ref name=Дворец>{{cite web|url=https://peterhofmuseum.ru/news/2018/862|title=Дворец Петра III открылся после реставрации|publisher=ГМЗ «Петергоф»|date=2018-05-24|accessdate=2019-01-30}}</ref><ref>{{cite web|url=https://karpovka.com/2018/05/30/362500/|title=Дом при крепости: в Ораниенбауме отреставрировали дворец Петра III||date=2018-05-30publisher30|publisher=карповка|accessdate=2019-01-30}}</ref>。]]
[[File:Peter III's letter (1746) 02.jpg|thumb|right|結婚から半年後、ピョートルがエカチェリーナに送った手紙(フランス語)。妻に拒絶されている様子が伺え、ピョートル側の事情で結婚後何年も夫婦関係は無かったとするエカチェリーナの主張を覆す証拠である。]]
[[File:Elizaveta Vorontsova by A.Antropov (GIM, 1762).jpg|right|thumb|ピョートルの愛人・エリザヴェータ・ヴォロンツォヴァ(1762年、{{仮リンク|アレクセイ・アントロポフ|en|Aleksey Antropov}}作)。ピョートル同様に天然痘の痘痕は描かれておらず、美化された肖像画である。]]
1744年7月9日、16歳になったピョートルはエリザヴェータの指示で父方の又従妹[[エカチェリーナ2世|ゾフィー・アウグステ・フリーデリケ・フォン・アンハルト=ツェルプスト]]と婚約、彼女は改宗して'''エカチェリーナ・アレクセーエヴナ'''と名乗った。しかしその年の秋、ピョートルは[[胸膜炎]]を患い、続いて[[水痘]]、そして[[天然痘]]に罹った。ピョートルは隔離され、回復して宮殿に戻ったのは翌年2月末だったが、その姿はやつれ、変わり果てていた。顔に酷い痘瘡が残り、髪は抜け落ち、宮廷の女性の中には彼を見て気を失う者もいたという<ref>{{cite web|url=http://www.ropshapalace.info/publ/knigi/viktor_monja_ropsha/imperator_petr_iii_i_ekaterina_alekseevna/10-1-0-93|title=Император Петр III и Екатерина Алексеевна.|date=2011-10-29|publisher=Три века Ропшинской усадьбы|accessdate=2019-01-28}}</ref>。ピョートルは自分の容貌に強いコンプレックスを抱いた。数多く残る彼の肖像画に痘痕は描かれていない。
 
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結婚から9年後の1754年10月1日、最初の子'''[[パーヴェル1世|パーヴェル・ペトロヴィチ]]'''が生まれた。夫婦がなかなか子供に恵まれなかった為、噂好きな宮廷の人々の好餌となったが、どの説も(エカチェリーナ自身の回想録での告白も含めて)、はっきりした証拠は無い<ref>最もよく知られた説が、ピョートルの[[包茎]]が原因であり、結婚後も夫婦関係は無かったが手術によって機能を回復したというものである。一方エカチェリーナは回想録で「夫は"方法"を知らなかった」と述懐しているが、ピョートルが結婚の翌年、エカチェリーナに宛てた手紙には「今夜を私と過ごさねばならぬか、などと心配しないで欲しい。私たち2人にとって1つのベッドはもはや狭すぎることになった。お前と二週間断絶したあとで、お前に夫と呼んでもらえぬ哀れな夫は・・・(後略)」と書かれている。この内容を見る限り、妻のほうが夫を嫌って遠ざけていたように取れる。{{cite web|url=https://jp.rbth.com/arts/2013/07/09/2_43987|title=エカテリーナ2世がクーデター|date=2013-07-09|publisher=RUSSIA BEYOND|accessdate=2019-01-14}}</ref>。パーヴェルはエリザヴェータの元で育てられる事になり、ピョートルは週に一度、息子に会う事を許された。結局、子供の存在が夫婦を近づける事にはならなかった。
 
ピョートルは[[ミハイル・ヴォロンツォフ]]伯爵の姪{{仮リンク|エリザヴェータ・ヴォロンツォヴァ|ru|Воронцова, Елизавета Романовна|en|Elizaveta Vorontsova}}を愛人とし、エカチェリーナも{{仮リンク|セルゲイ・サルトゥイコフ|ru|Салтыков, Сергей Васильевич|en|Sergei Saltykov (1726–1765)|label=セルゲイ・サルトゥイコフ公爵}}始め複数の愛人を持った<ref>世継ぎが生まれないことにしびれを切らしたエリザヴェータがエカチェリーナに愛人を持つことを許したと、エカチェリーナは回想録で告白しており、パーヴェルはピョートルの子でなく、サルトゥイコフの子であると示唆している。しかし肖像画に見るピョートルとパーヴェルの風貌には類似点があり、性格も共通するものがある。実はエカチェリーナの最大の脅威であったパーヴェルの、皇帝の座につく正統性を毀損したいがためのエカチェリーナの作話だったと推察する研究者は少なくない</ref>。ピョートルは未来の皇帝として、宮廷の如何なる美女でも思いのままに選べた筈だが、ヴォロンツォヴァは宮廷で笑い者にされている大変な醜女であった。酒好きの彼女のオリーブ色の顔は痘痕だらけで、フランス大使ファヴィエは「ヴォロンツォヴァの醜さは言葉で言い表せない程である」と著書に記している。しかしヴォロンツォヴァはピョートルがこれまでの人生で一度も得られなかった温かさを持っていた。ピョートルのヴァイオリンを何時間でも聴く事ができ、彼の飼い犬を可愛がり、彼の気まぐれに付き合う事の出来る愉快な女性だった<ref name=reading/><ref>[[アンリ・トロワイヤ]]による伝記を元にした[[池田理代子]]の「女帝エカテリーナ」では、飲んだくれで醜女のヴォロンツォヴァを愛人にすることで、「お前はこのような女にも劣る」と妻のエカチェリーナを侮辱したと解釈されている。</ref>。ピョートルとヴォロンツォヴァ、エカチェリーナとその愛人の[[スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ]]の4人で晩餐を共にする事も度々あったという。ポニャトフスキは非常に洗練された物腰の美男であった<ref name=vidania/>。
 
パーヴェルの誕生から3年後の1757年には女児アンナ・ペトロヴナが生まれたが、エカチェリーナによるとピョートルは妻の妊娠に立腹しており、「妻が何故再び妊娠したのか、神のみぞ知るだ。この子は私の子なのか、それを認めるべきか、全くわからない」と発言したという。アンナはポニャトフスキの子であるとされるが、2年後に亡くなった。
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ピョートルはまずエリザヴェータが追放した政治犯達を赦免し、人々から恐れられていた秘密警察を廃止し、拷問も禁止した。中でも最も重要とされる法令が、貴族の国家への奉仕義務と軍務を撤廃し国外旅行の自由を保証する『貴族の自由に関するマニフェスト』([[:ru:Манифест о вольности дворянства|Манифест о вольности дворянства]])である。これはロシア貴族が様々な便益を特権的に独占し続ける基礎となった。一方でピョートル大帝の時代から激しい迫害を受け国外に脱出した[[古儀式派]]の帰国を許すなど、[[信教の自由]]を認める宗教改革にも着手した。教会の領地を国有化し、彼らの財政基盤の弱体化を通じて、ピョートル大帝の統治の間でさえも深刻な問題であった[[聖務会院]]の政治への影響力を弱めようとした。これらは当然聖務会院から大きな反発を買った。教会から[[イエス・キリスト|キリスト]]以外の[[イコン]]を外し、聖職者に髭(知恵と伝統の象徴)を剃ってルーテル教会の牧師の服装をするよう強要したという話は、現代の作家によって創られたフィクションである。エカチェリーナはピョートルが[[国教]]をルーテル教会に変えようとしていたと回顧録の中で述べているが、これも全く信憑性に乏しい。その他に塩税<ref>{{cite web|url=https://jp.rbth.com/arts/2017/07/31/813940|title=ロシア文化における塩|date=2017-07-31|publisher=RUSSIA BEYOND|accessdate=2019-01-17}}</ref>の廃止、都市の改善に関する法令(石造りの住居の促進、防火対策、衛生および医療事業など)、500万ルーブルを投じてのロシア初の紙幣の発行、貿易・産業活動を活性化させるための{{仮リンク|ロシア帝国国立銀行|ru|Государственный банк Российской империи|en|Central Bank of Russia|label=国立銀行}}の設立など、ピョートルは僅か186日間の治世で192もの法令を出し改革を断行した。しかし後世、ピョートルは『改革者』として名声を得る事が一番の目的であり、彼に確固たる信念があったわけでなく、全ての法令は『人気取り』が目的だったと言われる事になる。先帝エリザヴェータよりも優れた皇帝であることを証明したかったに過ぎないと帝政時代の歴史家クリュチェフスキーは述べている。
 
文化面では、外国の有名な作曲家と劇作家をペテルブルクに招こうとし、愛好家によるアマチュアコンサートも奨励した。クーデターの直前、ピョートルは[[ナポリ]]から旧知の{{仮リンク|フランチェスコ・アラヤ|it|Francesco Araja|en|Francesco Araja}}を再び召喚した。アラヤはこの夏に{{仮リンク|ロプシャ宮殿|ru|Ропшинский дворец}}で上演されるオペラの依頼を受けた<ref name=PyotrFyodorovich/><ref name=russiapedia/><ref>アレクサンドル・ミリニコフ「ピョートル3世」2001年</ref>。
 
=== 外交政策 ===
[[File:Hoge Orde van de Zwarte Adelaar Pruissen.jpg|right|thumb|150px|プロイセンの黒鷲勲章]]
ピョートルはエリザヴェータが行ってきた反プロイセン的な外交政策を放棄した<ref name=vidania/>。当時のロシアは[[七年戦争]]の最中だったが、ピョートルは前述の通り、プロイセン王フリードリヒ2世を崇拝していたため、彼は5月5日の[[サンクトペテルブルク条約 (1762年)|サンクトペテルブルク条約]]でプロイセンと即時講和して、6月19日にはプロイセンとの攻守同盟を締結した。講和ではロシアが多大な人的犠牲と資金を払って勝ち得た領地をすべてプロイセンに返還した<ref name="EB1911" />。連敗を重ね、首都ベルリンも陥落寸前、自殺を考えるまでに追い詰められていたフリードリヒはこれによって救われた。賠償金も要求しなかったため、ロシア国内及びにロシア軍内から怨嗟の声が上がった。当のピョートルはフリードリヒから黒鷲勲章を贈られて感激していた。また、軍隊の規律や制服をプロイセン風に改めたため、伝統的に反プロイセン感情の強い軍部の反感を買った<ref>ロシア軍の主戦場・西ヨーロッパとトルコの気候にはプロイセン式の短いジャケットが最も合っていた。ピョートルは盲目的にプロイセン式を取り入れた訳ではなかった。また、プロイセンとの戦争が長引けばロシアは金融危機に陥り経済が崩壊していたとする見方も現在では存在する{{cite web|url=https://internasionale.livejournal.com/89694.html|title=Петр Третий: реформатор или дурак?|date=2013-09-1|publisher=LIVEJOURNAL1|accessdate=2019-01-27}}
</ref>。さらに[[ウィーン]]の[[ハプスブルク帝国]]宮廷に脅しをかけ、プロイセン王の要求を全て受け入れなければ宣戦布告するとした<ref name="EB1911" />。一方で自らの領する[[ホルシュタイン]]に関心を持ち、父の代に奪われていたシュレースヴィヒ<ref>1720年にスウェーデンとデンマーク=ノルウェーが[[フレデリクスボー条約]]を締結した結果、[[カール・フリードリヒ]]は、[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国]]領の北部地域に相当するシュレースヴィヒを失った(→[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題]]、[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]</ref>を、ロシア軍を投入してデンマークから奪回しようと計画<ref name=russiapedia/>、来たる7月6日に[[メクレンブルク]]を通過してデンマークに侵攻するようロシア軍に命じた<ref name="EB1911" />。この計画は当時、ロシアにとって何らの利益ももたらさないものであるとされた。しかしながらこの土地は戦略的価値があり、バルト海と北海の権益をロシアにもたらす拠点となり得た<ref name=inna/>。だが侵攻はロシア軍がデンマーク軍と遭遇する直前にロシア本国の政変により取り消された。
 
ピョートルの外交政策に堪忍袋の緒が切れた軍部がついに決起したのである。クーデターの陰の首謀者は皇后エカチェリーナであった。
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クーデターとエカチェリーナ即位の報に驚愕、狼狽したピョートルは側近の老将軍[[ブルクハルト・クリストフ・フォン・ミュンニヒ|ブルクハルト・ミュンニヒ]]から即刻[[クロンシュタット]]<ref>ロシア軍が駐屯している[[ポメラニア]]という説もある。</ref>(ペテルブルク沖にある島。要塞と海軍基地がある)へ避難するよう助言されたが、これを拒否、オラニエンバウムの{{仮リンク|ペテルシュタット|ru|Петерштадт|label=遊戯要塞}}に立て籠もり、私兵であるホルシュタインの守備隊に防衛させる作戦をとった。同日夕、エカチェリーナと近衛連隊が大挙してオラニエンバウムに向かって来ていると知ると、作戦を放棄、ヴォロンツォヴァなど女性を含む廷臣たちと共に[[ガレー船]]でクロンシュタットに向かったが、クロンシュタットの部隊は既にクーデター側に寝返っていた。接近するピョートルの船に「引き返さなければ発砲する」と岸から警告してきたため、船は係留も諦め、やむなく引き返した。(この時期は[[白夜]]であり、日没は午後10時を過ぎ、日没後も薄明が長く続く事に留意されたい)。
 
翌7月10日、ピョートルらはどうした訳かオラニエンバウムに戻った。船には食料、衣類などの生活物資が相当な量積み込まれており<ref>荷物の手配と積込みに時間がかかり出港が遅れた</ref>、そのまま亡命も出来た筈だったが。そしてホルシュタインの守備隊を突然解散させてエカチェリーナに恭順の意を表明した。ピョートルと共にいた廷臣たちは、ペテルブルクの様子を確かめて来ると言って出掛けたまま帰らなかった。彼らはペテルブルクでエカチェリーナに忠誠を誓っていた。
 
正午、ピョートルは『故郷のホルシュタインに戻り、哲学者<ref>フリードリヒ2世はまたの名を「哲人王」といった。</ref>となってヴォロンツォヴァと共に静かな生活を送る』という願望を抱きながら{{仮リンク|グリゴリー・テプロフ|ru|Теплов, Григорий Николаевич|en|Grigory Teplov}}<ref>エカチェリーナの助言役</ref>が用意した退位宣言に署名した<ref name=reading/>。この退位宣言では後継者指名がされていなかった。(譲位と引き換えにピョートルを故郷のキールに帰すという、エカチェリーナの空約束が署名の前にあったと見る研究者もいる)。そして自ら出向いてエカチェリーナに慈悲を乞うよう、ただ一人残ったミュンニヒ<ref>彼はエリザヴェータ女帝の時代にシベリアに追放されていたが、即位したピョートルにより名誉回復され、重用されていた。</ref>に説得されペテルゴフに向かったが<ref>途中、馬車の中で失神したという説もある。</ref>、到着したところで逮捕された<ref name=vidania/>。ピョートルは力無く椅子に座り込み、涙を流していたと伝えられる。同行していた愛人ヴォロンツォヴァは懇願むなしく連れ去られた。同日夜、ピョートルは首都郊外のロプシャ宮殿に送られ軟禁状態におかれた。アレクセイ・オルロフを筆頭に約100名の近衛兵が警戒に当たった。ピョートルは愛犬の[[パグ]]と自分のヴァイオリンを届けて欲しいと願ったが却下され、部屋から出ることはおろか、窓辺に近づくことさえ許されなかったという。
 
明けて11日、ピョートルは精神的な打撃のために前夜から頭痛と吐き気を訴え、水で薄めたワイン1杯しか摂れていない状態であった<ref name=paradox>{{cite web|url=http://history-paradox.ru/petrIII.php|title=Тайна убийства российского императора Петра III|publisher=ПАРАДОКСЫ ИСТОРИИ|accessdate=2019-01-17}}</ref>。翌12日に医師の派遣を要請する書簡をペテルブルクに送った<ref name=den-za-dnem>{{cite web|url=http://www.den-za-dnem.ru/page.php?article=877|title=Тайна смерти императора Петра III|date=2012-12-15|publisher=ДЕНЬ за ДНЁМ|accessdate=2019-01-14}}</ref>。最初はエカチェリーナ2世の宮廷もピョートルの処遇について悩み、廃帝[[イヴァン6世]]の如く終身[[シュリッセリブルク]]に投獄する、故郷ホルシュタインに送還する、といった案が出されたが、いずれも危険すぎるとして却下された<ref name="EB1911" />。
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=== 突然の死 ===
[[File:Orlov-Chesmenskiy.jpg|thumb|right|アレクセイ・オルロフ、[[ウィギリウス・エリクセン]]作。]]
[[File:Фёдор Рокотов (1760е) Портрет Никиты Ивановича Панина.jpeg|thumb|right|ニキータ・パーニン(F.(フョードル・ロコトフ画 1760年)]]
ピョートルの死は公式には持病の[[痔]]の激痛による発作死と発表され、ヨーロッパ諸国の嘲笑を買った<ref name=paradox/>。
 
しかし、一連の状況下で彼が体調をかなり悪化させていたのは疑いようもないが、余りに突然であり、ピョートルは'''暗殺'''されたのだという噂が当初からしきりに囁かれていた。
その後の研究でアレクセイ・オルロフと{{仮リンク|フョードル・バリャチンスキー|ru|Барятинский, Фёдор Сергеевич}}によって絞殺されたとの見方が長らく(約200年間)定説となっていた。[[ソビエト連邦共産党|ソヴィエト政権下]](1922-1991)(1922年 - 1991年)に於いて国内・国外の歴史学者達は歴史資料の入手が困難となり、[[ロシア帝国の歴史|帝政時代]]に関する研究は滞ることを余儀なくされていた事も大きな要因であろう<ref name=reading/>。ところが、オルロフらによる殺害説の根拠とされたオルロフのエカチェリーナ宛の手紙<ref>ピョートルの死から34年後、エカチェリーナの崩御後に見つかったとされる。カードゲーム中に酒に酔った将校達と乱闘になりピョートルが死んだ事を知らせるものだが、原物はパーヴェル1世が破棄しており、これは写しであった。しかしこの手紙にあるような事が起き、100人体制で見張っておきながらピョートルを死なせたと言うなら、その後誰ひとり処分されていないのは異様である。しかもオルロフはこの後伯爵位と財産を授かっている。 </ref>は偽造されたものであるとの言語学者による研究結果が1995年に発表され、ピョートルの死は再び謎に包まれてしまった<ref name=den-za-dnem/><ref name=statehistory>{{cite web|url=https://statehistory.livejournal.com/68725.html|title=Смерть Петра III|date=2012-12-15|publisher=LIVEJOURNAL|accessdate=2019-01-14}}</ref> 。また、同研究者はピョートルが死亡したのは17日ではなく14日以前だったと主張している。というのは14日にペテルブルクからロプシャに派遣された外科医が、治療薬ではなく解剖用の道具と防腐剤を持って向かっていたからであり、この事は14日の時点でピョートルの死が既にペテルブルクに知れていた証拠であるという<ref name=den-za-dnem/>。
 
ともあれ、エカチェリーナの命令で遺体は[[病理解剖|剖検]]され、重度の心機能不全、腸炎、脳卒中の徴候が認められた。毒殺が疑われたが、胃壁に異常は無かった。生前に頭痛を訴えていたことから、死亡原因は脳卒中、つまり自然死であるとする見方も現在では一定の支持を得ている<ref name=vidania/>。
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粗末な棺の中に横たわるピョートルは白いカフスのついた水色のホルシュタインの竜騎兵の制服を着て、胸に置かれた手には白い大きな手袋が嵌められていた。制服は古ぼけ、手袋には乾いた血痕が付いていた。かつらを着けていない頭の髪はひどく乱れたままだった。元皇帝ですらないとされた彼は『ホルシュタイン竜騎兵隊中尉・ホルシュタイン=ゴットルプ公』であった。目撃者の中には、ピョートルの遺体は顔が青黒く、窒息した形跡があると主張する者もいたが、棺の近くに立ち止まることは禁じられていた。
 
3日間の[[パニヒダ]]の後、21日にピョートルの棺は[[イコノスタシス]]の王門の真向かい、『娘』アンナ・ペトロヴナの墓の背後に埋葬された<ref name=paradox/>。エカチェリーナはニキータ・パーニンの諫言で体調不良を理由に葬儀に列席しなかった。エカチェリーナはその後、オラニエンバウムのピョートルの劇場も音楽学校も閉鎖した。
<ref name=paradox/>。
エカチェリーナはニキータ・パーニンの諫言で体調不良を理由に葬儀に列席しなかった。エカチェリーナはその後、オラニエンバウムのピョートルの劇場も音楽学校も閉鎖した。
 
ピョートルが尊敬していたフリードリヒは「子供がベッドに連れて行かれるように、皇帝の座から降ろされた」と評した。ピョートルは生涯を通して、権力闘争に備えていなかった。
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== クーデター側によって歪められた実像 ==
=== エカチェリーナの「武器」 ===
[[File:Rokotov paul 1 as child.JPG|thumb|right|皇太子パーヴェル・ペトロヴィチ(F.(フョードル・ロコトフ画 1761年)]]
エカチェリーナのピョートルに対する攻撃は彼の死後も続いた。彼女は権力掌握を様々な方法で正当化しなければならなかった為、彼の人格、行動を嘘で塗り固めて喧伝した。国内で歓迎されていたピョートルの改革も、エリザヴェータ女帝の秘書であったドミートリイ・ヴォルコフらの発案であった事にした。更に、女帝の座を脅かし得る存在を、自身の名誉を傷つけてでも排除しようとした。
 
エカチェリーナとパーヴェルの親子関係は非常に険悪なものであった事はよく知られているが、パーヴェルはピョートルの子ではないという噂があった。エカチェリーナの当時の愛人セルゲイ・サルトゥイコフが父親だというのだ。しかし研究者達の多くは、この噂は他ならぬエカチェリーナ自身がある意図を持って流したものだと指摘する。
 
ピョートル3世を倒して玉座についたドイツ人・エカチェリーナにとって、ロマノフの血を引くパーヴェルの存在は、我が子ながら最大の脅威だった。片や母親から離されてエリザヴェータ女帝の元で育てられたパーヴェルもまた、『父・ピョートルのように』エカチェリーナに暗殺されるのではないかという強い猜疑心を抱いていた。エカチェリーナが恐れたのはパーヴェル本人ではなく、彼の後ろ盾のパーニンを始めとする有力な貴族達であった。ロシア帝国は伝統的に貴族の力が強く、彼らの利害関係によって皇帝が次々と交替させられて来た。エカチェリーナが即位出来たのも彼らの力によるものであり、「夫殺し」の噂まで付き纏うエカチェリーナ自身の権力基盤は弱く、今度は自分がピョートルと同じ道を辿る事になるかも知れないのだ。それを防ぐ為には、パーヴェルを自分よりも継承権が無い事にせねばならない。それ故にエカチェリーナはパーヴェルの父親をセルゲイ・サルトゥイコフだとする必要があった。帝政末期の歴史家は以下のように述べている<ref> {{cite web|url=https://www.bagira.guru/russian-history/byl-li-pavel-synom-petra-iii.html|title=Был ли Павел сыном Петра III|publisher=Багира4|accessdate=2019-01-30}}</ref><ref>
エカチェリーナが恐れたのはパーヴェル本人ではなく、彼の後ろ盾のパーニンを始めとする有力な貴族達であった。ロシア帝国は伝統的に貴族の力が強く、彼らの利害関係によって皇帝が次々と交替させられて来た。エカチェリーナが即位出来たのも彼らの力によるものであり、「夫殺し」の噂まで付き纏うエカチェリーナ自身の権力基盤は弱く、今度は自分がピョートルと同じ道を辿る事になるかも知れないのだ。それを防ぐ為には、パーヴェルを自分よりも継承権が無い事にせねばならない。それ故にエカチェリーナはパーヴェルの父親をセルゲイ・サルトゥイコフだとする必要があった。帝政末期の歴史家は以下のように述べている<ref> {{cite web|url=https://www.bagira.guru/russian-history/byl-li-pavel-synom-petra-iii.html|title=Был ли Павел сыном Петра III|publisher=Багира4|accessdate=2019-01-30}}</ref><ref>
{{cite web|url=https://aldanov.livejournal.com/16641.html|title=Кто был отцом Павла I - Петр Федорович или Сергей Салтыков?|date=2007-03-26|publisher=LIVEJOURNAL|accessdate=2019-01-29}}</ref>。
{{Quotation|エカチェリーナの主力武器は「'''嘘'''」であった。<br />彼女は幼少期から老年期まで生涯に渡ってその武器を使い続けた。彼女は[[ヴィルトゥオーソ]](達人)だった。標的は両親、教師、夫、恋人、国民、外国人、同時代の人々と子孫であった。|歴史家{{仮リンク|ヤコブ・バルスコフ|ru|Барсков, Яков Лазаревич}}}}
 
=== 黄金時代の裏で ===
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12月1日、ピョートルの墓が受胎告知教会からペトロパヴロフスキー大聖堂に移される事が発表された。
 
翌12月2日は凍てつくような寒い日で、気温は氷点下30度を記録した。午前11時、受胎告知教会の正門を出発したピョートルの棺は[[冬宮殿]]に向かった。近衛連隊と陸軍部隊が教会から宮殿までのネフスキー大通りの両脇に整列し、葬列を見守った。その際、60歳のアレクセイ・オルロフが棺の前でビロードの枕に載せられた帝冠を素手で捧げ持ち、5キロメートルの道のりを2時間半かけて歩かされたという<ref>アレクセイ・オルロフは直接関わっていないとしてもピョートルが死亡した現場の責任者である</ref>。棺は宮殿内の礼拝所に運ばれ、エカチェリーナの棺とそれぞれカストルム・ドロリス([[:de:Castrum doloris|Castrum doloris]])に安置された。
 
12月5日、二つの棺はペトロパヴロフスキー大聖堂に運ばれた。葬列はエカチェリーナの棺を乗せた[[チャリオット]]が前を進み、帝冠が置かれたピョートルの棺を乗せたチャリオットがすぐ後に続いた。『'''皇帝ピョートル3世とその后エカチェリーナ・アレクセーエヴナ'''の葬列』である。更にその後方には皇帝パーヴェルと皇后マリア、皇子皇女達が従った。マリアは泣いていたが、パーヴェルの顔には悲しみではなく怒りの表情が浮かんでいたという。
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ロシア生まれ・ドイツ在住の歴史家で作家の{{仮リンク|エレナ・パーマー|en|Elena Palmer}}は、これまで語られてきたピョートルの人物像を完全に否定する。ピョートルは4歳の時に養育係となったキール大学の学長から宗教、哲学、法を学び、同大学の優秀な教授たちが招待されて彼らからラテン語、数学、製図、化学、フランス語、天文学、地理学を10年間学んだという。読書家であり、ラテン語を始めとする語学にも堪能で、あらゆるジャンルの書物を原語で読んでいたという。ロシア帝国最大の歴史家[[ヴァシリー・クリュチェフスキー]]による著作が、『"馬鹿げたホルシュタイン教育学"とその"不幸な犠牲者"』としてのピョートルを印象づけてしまったのは、クリュチェフスキーが他国語を理解できず、ドイツに関する知識が全く無かった為であるという。加えて、芸術の問題にも明らかに無知であり、ピョートルの音楽・文化活動を皮肉を持って説明したと指摘する。またパーマーは、ピョートルについて語る時に欠かせない、彼が常に兵隊のミニチュアで遊んでいたという話は、若いエカチェリーナが『憎しみのプリズム』を通して彼を見たための誤解であったろうと分析する。ミニチュアの兵士や兵器をジオラマの中に並べて軍事作戦を考案するのは、軍の最高司令官である皇帝の地位を約束されたピョートルにとって必須の学問だったのだ<ref name=13ошибок/>。
 
アレクサンドル・ミリニコフは「ロシアの歴史の中で最も偽造された時代の一つ」であると明言している。19世紀から20世紀にかけて出回ったピョートルの伝記が軽蔑的な観点のみで書かれていたのは、エカチェリーナ、[[エカテリーナ・ダーシュコワ]]、{{仮リンク|ピョートル・パーニン|ru|Панин, Пётр Иванович|en|Petr Ivanovich Panin}}といった、ピョートルを裏切った人々の回顧録のみを資料とし、フランス大使・ファヴィエ等の外国人が残した資料を一切無視していたからである。帝政時代の研究はソビエト時代に停滞・もしくは歪められ、1977年に出版された[[アンリ・トロワイヤ]]の「女帝エカテリーナ」も、そうした旧い伝記を元に書かれたものだった。それ故に、人々の中で彼のイメージは明らかに否定的だった。しかし最近、歴史家たちはこの皇帝がロシアに対して非常に明確な奉仕をしてきたという証拠を発見し、そして彼の支配が長期に渡っていたならば、ロシア帝国の住民に明白な利益をもたらしたであろうという結論に至っている([[#ピョートル3世が取り組んだ改革の一覧|次項]]を参照)<ref name=24СМИ>{{cite web|url=https://24smi.org/celebrity/3531-petr-iii.html|title=Петр III|publisher=24СМИ|accessdate=2019-01-30}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.zarpeteriii.de/zarpeteriii/|title=Zur Person Zar Peter III.|publisher= Kieler Zarenverein|date=2018-01|accessdate=2019-02-07}}</ref>。エレナ・パーマーはピョートルがいなければ[[チャイコフスキー]]も[[グリンカ]]も、[[マリインスキー劇場]]、そして[[ボリショイ劇場]]も存在しなかったであろうと断言する<ref name=13ошибок/>。
{{cite web|url=https://24smi.org/celebrity/3531-petr-iii.html|title=Петр III|publisher=24СМИ|accessdate=2019-01-30}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.zarpeteriii.de/zarpeteriii/|title=Zur Person Zar Peter III.|publisher= Kieler Zarenverein|date=2018-01|accessdate=2019-02-07}}</ref>。エレナ・パーマーはピョートルがいなければ[[チャイコフスキー]]も[[グリンカ]]も、[[マリインスキー劇場]]、そして[[ボリショイ劇場]]も存在しなかったであろうと断言する<ref name=13ошибок/>。
 
2014年6月、再評価の動きに合わせて生まれ故郷のキールにピョートルの銅像が立てられた。募金10万ユーロが一般市民から寄せられ、ロシアの彫刻家アレクサンドル・タラティノフが作成、玉座の横に立つピョートルは手に"FRIEDEN Миръ 1762 Петр Peter"(ロシア語とドイツ語で「平和 1762 ピョートル ペーター」)と書かれた巻物を持っている。ピョートルのピースメーカーとしての側面を讃えたもので、銅像はペテルブルクの方角を向いている。
ドイツに続いて2018年、オラニエンバウム(現・ロモノーソフ)でも銅像が立てられた。第二次大戦で損傷を受けなかった<ref>戦争中は小学校として利用されていた。ピョートルが子供達を戦災から守ったのだとの言い伝えもある。</ref>ピョートルの宮殿は2016年から2018年にかけて1億5800万ルーブルをかけて修復され、完成披露の式典ではピョートル作曲のヴァイオリン曲も演奏された。ピョートルの人物像も現在の[[歴史科学]]において『僅か6ヶ月の間に多くの重要な改革を実行した賢明な君主』という評価に次第に置き換わりつつある<ref>{{cite web|url=http://beiunsinhamburg.de/2014/петр-iii-возвращение-на-родину/|title=В Киле открыт памятник российскому императору Петру Третьему|date=2014-07-09|publisher=ГМЗ «Петергоф»|accessdate=2019-01-30}}</ref><ref name=Дворец/>。
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== ピョートル3世が取り組んだ改革の一覧 ==
[[File:Peter III of Russia by Rokotov (1762, Nizhny Novgorod).jpg|right|thumb|400px|ピョートル3世 {{仮リンク|フョードル・ロコトフ|en|Fyodor Rokotov|ru|Рокотов, Фёдор Степанович|label=F.ロコトフ}}画、1762年]]
'''1.#教育改革'''
#*すべての子供たちのための義務教育
 
- すべて#*貴族の子供たちのための義務教育職業訓練
- #*職人のための職業訓練計画
 
- #*教師の資格要件
- 貴族の子弟のための職業訓練
'''2.#経済改革'''
 
- #*国立銀行の設立
- 職人のための職業訓練計画
- #*輸出促進のためのルーブルの切り下げ
 
- #*貴族のための土地保有独占の廃止
- 教師の資格要件
- #*塩税の廃止
 
- #*ブルジョア中産階級の推進
'''2.経済改革'''
- #*遠隔地のインフラ
 
- #*対外貿易の自由化によるロシア経済の強化
- 国立銀行の設立
'''3.#教会改革'''
 
- #*教会の財産の国有化
- 輸出促進のためのルーブルの切り下げ
- #*教会の権力者からの農民の解放
 
- #*宗教的寛容と良心の自由
- 貴族のための土地保有独占の廃止
- #*教会の腐敗や不祥事の取り締り
 
'''4.#司法と社会の改革'''
- 塩税の廃止
- #*拷問の禁止
 
- #*秘密警察の解散
- ブルジョア中産階級の推進
- #*貴族の奉仕義務の廃止
 
- #*政治的に迫害された人々に対する恩赦
- 遠隔地のインフラ
- #*辺境地への追放の代わりに懲役
 
- #*統一ロシアの法律書の計画
- 対外貿易の自由化によるロシア経済の強化
- #*被告を支援する司法改革
 
- #*ロシアの貴族のための海外旅行と設立の自由
'''3.教会改革'''
 
- 教会の財産の国有化
 
- 教会の権力者からの農民の解放
 
- 宗教的寛容と良心の自由
 
- 教会の腐敗や不祥事の取り締り
 
'''4.司法と社会の改革'''
 
- 拷問の禁止
 
- 秘密警察の解散
 
- 貴族の奉仕義務の廃止
 
- 政治的に迫害された人々に対する恩赦
 
- 辺境地への追放の代わりに懲役
 
- 統一ロシアの法律書の計画
 
- 被告を支援する司法改革
 
- ロシアの貴族のための海外旅行と設立の自由
 
== 登場する作品 ==
*{{仮リンク|ミハイル・ロモノーソフ (映画)|ru|Михайло Ломоносов (фильм, 1986)|label=ミハイル・ロモノーソフ}} - [[1986年]]、[[モスフィルム]]の映画。ピョートル役は{{仮リンク|ボリス・プロトニコフ|ru|Плотников, Борис Григорьевич|en|Boris Plotnikov}}
*{{仮リンク|ヤング・キャサリン|en|Young Catherine}} - [[1991年]]、[[ターナー・ネットワーク・テレビジョン]]制作の英ドラマ。リース・ディンズデール([[:en:Reece Dinsdale|Reece Dinsdale]])
*{{仮リンク|ファボリート|ru|Фаворит (телесериал)|label=ファボリート(寵臣)}} - [[2005年]]、テレビドラマ。ダニール・シガポフ(Даниил Шигапов)
* {{仮リンク|銀のサムライ|ru|Серебряный самурай}} - [[2007年]]、ロシア映画。{{仮リンク|ダニール・スピヴァコフスキー|ru|Спиваковский, Даниил Иванович}}
* {{仮リンク|ペンと剣|ru|Пером и шпагой}} - [[2007年]]、[[ロシア1]]のドラマ。{{仮リンク|セルゲイ・バルコフスキー|ru|Барковский, Сергей Дмитриевич}}
* {{仮リンク|ロマノフ家 (テレビドラマ)|ru|Романовы (документальный цикл|label=ロマノフ家}} - [[2013年]]、[[チャンネル1 (ロシア)|チャンネル1]]のドキュメンタリードラマ。 {{仮リンク|イリヤ・シェルビニン|ru|Щербинин, Илья Владимирович}}
* [[エカテリーナ (テレビドラマ)#シーズン1 「エカテリーナ」(Екатерина)(2014年放送)|エカテリーナ]] - [[2014年]]、[[ロシア1]]のドラマ。{{仮リンク|アレクサンドル・ヤツェンコ|ru|Яценко, Александр Викторович}}
* {{仮リンク|エカテリーナ大帝 (テレビドラマ)|ru|Великая (телесериал)|en|Catherine the Great (TV series)|label=エカテリーナ大帝}} - [[2015年]]、[[チャンネル1 (ロシア)|チャンネル1]]のドラマ。{{仮リンク|パーヴェル・デレヴャンコ|ru|Деревянко, Павел Юрьевич|en|Pavel Derevyanko}}
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== 参考サイト ==
*キール ツァーリ協会 Kieler Zarenverein 公式サイト http://www.zarpeteriii.de/
 
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
*[http://www.zarpeteriii.de/ キール ツァーリ協会 Kieler Zarenverein 公式サイト http://www.zarpeteriii.de/]
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