「高田渡」の版間の差分

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[[1969年]]、フォークソングの潮流の源であった[[京都]]に拠点を移し、高石事務所に所属する。[[高石ともや]]、[[岡林信康]]、[[中川五郎]]、[[早川義夫]]、[[加川良]]、[[岩井宏]]、[[ひがしのひとし]]、[[古川豪]]、[[藤村直樹]]らと[[関西フォーク]]・ムーブメントの中心的存在となる。しかし、カテゴライズされることを嫌い、まったく独自の存在感と主張を貫いた。
 
高石事務所が運営する[[アングラ・レコード・クラブ|URC]]レコードから[[五つの赤い風船]]とのカップリングアルバムでレコードデビュー。そのほか、LPは「汽車が田舎を通るそのとき」、シングル盤は「大ダイジェスト盤 三億円強奪事件の唄」「転身」「自衛隊に入ろう」と、通算2枚のLPと3枚のシングル盤をリリースし、ライブ活動の仕事も潤沢にあったが、事務所の不正が発覚した際、抗議して契約解除になる。これは高田渡本人への不正ではなく、五つの赤い風船へのギャラのダンビングだった。フリーとなると仕事は激減したが、しばらく京都に暮らし、アルバイトをしながら活動する。翌年、高石事務所は音楽舎に社名変更。
 
[[1970年]]、第2回全日本フォークジャンボリーでは、東京からヒッチハイクして現れたブルーズシンガーの[[シバ (ミュージシャン)]]や、アート音楽出版にいた[[加川良]]をステージ上に登場させ、二人をデビューを手伝っている。このとき、[[キングレコード]]の三浦光紀と出会い、東京での再出発に繋がっていく。