「クライナ・セルビア人共和国」の版間の差分

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将軍[[アンテ・ゴトヴィナ]]を含む多くのクロアチア軍の士官が、[[デン・ハーグ|ハーグ]]の旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)によって訴追された。訴追理由は、クロアチア軍兵士による民間のセルビア人に対する残虐行為に対する指導者責任を問うものである<ref name="Gotovina indictment">Gotovina indictment http://www.un.org/icty/cases-e/cis/gotovina/cis-gotovina.pdf</ref>。
 
15万人から20万人のクロアチア領内のセルビア人たちは一団となってクロアチア領クライナを追われ、大部分が[[セルビア]]へ、また一部は[[東スラヴォニア・バラニャおよび西スレム・セルビア人自治州|東スラヴォニア]]へと流れ着いた。彼らの一部はクライナ・セルビア人共和国の当局にそって早期に脱出させられ<ref namegroup="Martic Order注釈">Martic order http[[://en.wikipedia.org/wiki/ImageFile:Martic-order1995.jpg]]</ref>、またその他の多くは嵐作戦の後に恐怖と作戦後の混乱から逃れるためにクライナを脱出した。クライナのセルビア系住民の間に広がっていた恐怖は理由なきものではなかった。多くのセルビア人がクロアチア軍兵士によって殺害され、各地で残虐行為が発生していた。UNPROFORによると、11月までに200を超える殺害が起こっていた。また、クロアチア軍の指令による放火も各地で幅広く起こっていた。ICTYはこれを、脱出したセルビア人の帰還を防止するためのものと評した<ref name="Gotovina indictment" />。最終的には、クライナの主要部分(東スラヴォニアを除く)にはわずかに4千人のセルビア人のみが留まっていた。
 
クライナを脱出したクロアチア人の多くと、セルビア人の幾らかはクライナに戻ったものの、クライナのセルビア人人口は以前から比べるとごく一部に過ぎない。[[1992年]]にクロアチア政府によって計画されていたクライナの自治区設置案は[[1997年]]2月7日に破棄され、クライナ地域は完全にクロアチア本国の一部へと統合されている。
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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