「澤村宗十郎 (7代目)」の版間の差分

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== 経歴・人物 ==
[[1881年]](明治14年)澤村源平で初舞台。[[1892年]](明治25年)大阪で[[片岡仁左衛門 (11代目)|十一代目片岡仁左衛門]]の引きたてを受け、三代目[[澤村訥升]]を襲名する。[[19111908年]](明治4441)9月、歌舞伎座で『高野山』の苅萱道心役で七代目[[澤村宗十郎]]を襲名。1911年(明治44年)、[[帝国劇場]]専属となり、昭和5年の帝劇の松竹借り受けまで所属した。女形、立役を得意とした。江戸和事というべき古風な芸で、独自の台詞回しとともに観客の好悪が激しかった。ために、戦前期までは、近代歌舞伎の流れから外れて不遇をかこっていた。戦後、その芸風が珍重され、'''宗十郎歌舞伎'''の名で再評価が高まる。その矢先、[[姫路市|姫路]]の巡業先で『[[仮名手本忠臣蔵]]』の勘平を演じている最中に倒れた。その最後は、揚幕の中で「財布。財布。」と六段目の勘平の使う小道具の財布のことを口走りながら逝くという壮絶なものであった。
 
鷹揚な性格で、被るべき鬼女の面を忘れて舞台に立ってしまい、止むなくそれらしい顔をしてごまかしたというエピソードが伝わっている。