「成田空港問題」の版間の差分

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=== 政府の強権的な姿勢による空港建設と反対運動の開始 ===
[[File:SanrizukaDoumei.gif|thumb|150px|[[三里塚芝山連合空港反対同盟]] シンボルマーク]]
しかし、[[三里塚 (成田市)|三里塚]]においても御料牧場<ref group="注">なお、宮内庁下総御料牧場については1969年に高根沢御料牧場に移転している</ref>ほか国や行政が保有している土地は空港予定地の4割弱に過ぎず、引続き民有地の土地取得が最重要問題となったが、富里・八街同様に事前説明の全くないままの発表であり、7月4日の閣議決定三里塚案を[[報道]]で知った地元住民は猛反発した。地元住民らは開拓地の[[借金]]問題、土地を失うことや騒音問題への懸念から「[[三里塚芝山連合空港反対同盟]]」(以下「反対同盟」と略記)を結成し、[[三里塚闘争]]を開始した。
 
関係者による説明・移転交渉、地権者団体との折衝の結果、[[1968年]][[4月6日]]には[[新東京国際空港公団]](以下、空港公団)と条件賛成派の覚書締結により民有地の89%が確保された。しかし、11%の未買収地が残ったうえ、反対派が強固に抵抗をつづけたため、空港公団による買収地の測量もでき行えない状態が続いた。日本国政府が空港反対派への説明・対話十分に行われまま、警察の現地に[[機動隊]]が投入によりされ、排除を受けた反対派を強制的はこれ排除反発ようとしたことから、結果的に空港反対運動を過激化させた<ref name="sankei20150803">{{cite news
| author =
| url = http://www.sankei.com/region/news/150803/rgn1508030020-n3.html
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}}</ref>。
 
当初は、[[日本社会党]]や[[日本共産党]]など、革新政党からの支援を受けていた反対運動だったが、反対派の主張を無視するに応じない政府の強権的な姿勢に対して、反対派農民が次第に「力には力で対抗する」という方針を固めたことにより、既成革新政党は反対運動から引いていった。これについて、かつて[[51年綱領]]を定めて[[武装闘争]]を行っていた共産党を、[[破壊活動防止法]]に基づき監視対象にしている[[公安調査庁]]<ref>{{Cite web|url=http://www.moj.go.jp/psia/habouhou-kenkai.html|title=共産党が破防法に基づく調査対象団体であるとする当庁見解|accessdate=2017-11-25|date=|publisher=公安調査庁}}</ref>は、「社会、共産の両党が反対運動を党勢の拡大に利用しようとしたため、農民から不信感を持たれた」と1993年4月にまとめた『成田闘争の概要』で分析している<ref name="sankei150802">{{Cite news
|url = http://www.sankei.com/region/news/150802/rgn1508020033-n1.html
|title = 【戦後70年 千葉の出来事】成田闘争(上) さながら白昼の市街戦