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{{スペイン語圏の姓名|イララゴーリ|エアロ}}
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|名前=ホセ・イララゴーリ
'''ホセ・イララゴーリ・エアロ'''('''José Iraragorri Ealo''', [[1912年]][[3月16日]]生-[[1983年]][[4月27日]]没<ref>https://elpais.com/diario/1983/04/28/agenda/420328801_850215.html [[エル・パイス]] 2019年1月20日閲覧。</ref>・[[ガルダカオ]])は、[[スペイン]]の[[バスク州]][[ビスカヤ県]][[バサウリ]]出身の元[[サッカー選手]]・指導者。母国[[スペイン]]と[[アルゼンチン]]・[[メキシコ]]の三か国でプレーした。[[アスレティック・ビルバオ]]第一次黄金期のフォワード陣の1人で<ref>http://www.elenganche.es/2009/05/equipos-historicos-la-delantera-mitica/ エル・エンガンチェ 2019年1月20日閲覧。</ref>、[[サッカースペイン代表|スペイン代表]]の[[FIFAワールドカップ]]本大会における最初のゴールを決めた<ref>https://www.marca.com/blogs/ni-mas-ni-menos/2018/06/30/iraragorri-el-primer-gol-de-espana-en-un.html [[マルカ (新聞)|マルカ]] 2019年1月20日閲覧。</ref><ref>https://www.naiz.eus/eu/hemeroteca/gara/editions/gara_2014-06-15-07-00/hemeroteca_articles/el-chato-de-galdakao Naiz 2019年1月20日閲覧。</ref>。
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|本名=ホセ・イララゴーリ・エアロ
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'''ホセ・イララゴーリ・エアロ'''('''José(José Iraragorri Ealo''', [[1912年]][[3月16日]] -[[1983年]][[4月27日]]<ref>[https://elpais.com/diario/1983/04/28/agenda/420328801_850215.html José Iragorri, ex jugador del Athlétic] [[エル・パイス]] 、1983年4月28日、2019年1月20日閲覧。</ref>・[[ガルダカオ]])は、[[スペイン]]の[[バスク州]][[ビスカヤ県]][[バサウリ]]出身の[[サッカー選手]]・サッカー指導者。母国[[スペイン]][[アルゼンチン]]・[[メキシコ]]の三か国でプレーした。[[アスレティック・ビルバオ]]第一次黄金期のフォワード陣の1人で<ref>[http://www.elenganche.es/2009/05/equipos-historicos-la-delantera-mitica/ Equipos históricos: La delantera mítica] エル・エンガンチェ 、2009年5月12日、2019年1月20日閲覧</ref>、[[サッカースペイン代表|スペイン代表]]の[[FIFAワールドカップ]]本大会における最初のゴールを決めた人物である<ref>[https://www.marca.com/blogs/ni-mas-ni-menos/2018/06/30/iraragorri-el-primer-gol-de-espana-en-un.html Iraragorri, el primer gol de España en un Mundial] [[マルカ (新聞)|マルカ]] 、2018年6月30日、2019年1月20日閲覧。</ref><ref>[https://www.naiz.eus/eu/hemeroteca/gara/editions/gara_2014-06-15-07-00/hemeroteca_articles/el-chato-de-galdakao Naizgaldakaoa El Chato de Galdakao] Naiz、2014年6月15日、2019年1月20日閲覧</ref>。
 
==<small>クラブでの 経歴</small> ==
=== 現役選手時代 ===
==== クラブ ====
「ガルダカオの[[鮫|サメ]](Chato)」という恐ろしいニックネームで知られ<ref>[http://hemeroteca.mundodeportivo.com/preview/1956/05/17/pagina-4/642428/pdf.html Edición del ??? 17 5? de 1956, Página 4] [[ムンド・デポルティーボ]] 、1956年5月17日、2019年1月20日閲覧</ref>、1930年代から1940年代までゴールを量産したフォワード。ポジションは2-3-5時代の「インサイド・レフト」。5人のFWのうち前線2列目の左セカンド・ストライカー、1930年代以降の2-3-5(メトドやWM)では攻撃的[[ミッドフィールダー|OMF]]に近い2列目の左セカンドストライカー。いずれの位置でもインサイドで勝負するストライカー兼チャンスメーカーであった。
 
1928年、16歳で[[アスレティック・ビルバオ]]のフベニールに加入。翌年にはもう1軍チーム昇格が認められ、当時最強を誇った[[ラモン・デ・ラ・ラフエンテ|ラフエンテ]]、[[アグスティン・サウト・アラーナ|バタ]]、[[チッリ2世]]、[[ギジェルモ・ゴロスティサ|ゴロスティサ]]などと攻撃陣を形成し<ref>[http://www.elenganche.es/2009/05/equipos-historicos-la-delantera-mitica/ Equipos históricos: La delantera mítica] El Enganche、2009年5月12日</ref>、[[フレッド・ペントランド]]監督(第二期)の指揮の下でクラブの第一次黄金期を作り上げた。[[リーガ・エスパニョーラ1929-1930]]年シーズンは18試合でわずか1敗という強さでリーグ初優勝、更に[[コパ・デル・レイ1930]]も制して二冠を達成。翌[[リーガ・エスパニョーラ1930-31|1930-1931年]]シーズンはきわどい接戦ではあったもののリーグを連覇し、更にコパ・デル・レイも優勝して2年連続2冠を成し遂げた。
 
その後マドリードFC(現[[レアル・マドリード|マドリードFC]])に競り負けリーグ連覇を許すが、共和国大統領杯では1932年、1933年大会と連覇した。[[パトリシオ・カイセド]]新監督の時代には、[[リーガ・エスパニョーラ1933-1934|1933-1934年シーズンのプリメーラ・ディシオン]]を制しリーグ王座を3年ぶりに奪回すると、更に2年後の[[リーガ・エスパニョーラ1935-1936|1935-1936年シーズン]]にもリーグで優勝。イララゴーリは通算でリーグ4回・カップ4回優勝を経験し、ビルバオ第一次黄金期のタイトルをほぼ全てレギュラーとして味わった。
 
1936年の[[スペイン内戦]]の開始後、イララゴーリは難民・戦災被害者への義援金を集める目的で行われた[[サッカーバスク代表|バスク代表]]の国外チャリティ・ツアーに召集され、欧州とメキシコで試合をした<ref>[https://aboutbasquecountry.eus/2013/02/08/la-seleccion-de-euzkadi-1937-1939-su-historia-contada-desde-mexico/ LA SELECCIÓN DE EUZKADI 1937-1939. SU HISTORIA CONTADA DESDE MÉXICO] About Basque Country 、2013年2月8日、2019年1月20日閲覧</ref><ref>[https://www.panenka.org/miradas/cuando-euzkadi-conquisto-mexico/ PanenkaCuando Euzkadi conquistó México] Panenka、2017年1月24日、2019年1月20日閲覧</ref>。1939年には、ビルバオの同僚である[[アンヘル・スビエタ]]と二人そろってアルゼンチンの[[CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ]]へ海外移籍した。だがここではケガに苦しみ、わずかな試合にしか出られなかった。
 
続いてメキシコの[[レアル・クルブ・エスパーニャ]]に移籍し、ビルバオ時代の仲間[[グレゴリオ・ブラスコ]]や[[レオナルド・チラウレン]]、スペイン代表で共にFIFAワールドカップに出た[[イシドロ・ランガラ]]といった同胞たちにも恵まれ<ref>[http://hemeroteca.mundodeportivo.com/preview/1955/03/13/pagina-4/641898/pdf.html Edición del ??? 13 3? de 1955, Página 4] [[ムンド・デポルティーボ]] 、1955年3月13日、2019年1月20日閲覧</ref>、最終的に7年間所属し複数のタイトルも獲得できた。
 
1946年にはスペインへ戻り古巣ビルバオへ復帰。だがチームは低迷し自身の出場機会も少ないという苦しみの中で、[[リーガ・エスパニョーラ1948-1949|1948-1949年シーズン]]終了後に現役を引退した。アスレティック・ビルバオでは通算10シーズン在籍、240試合で179得点を挙げた。
=== 指導者時代 ===
イララゴーリはまだ正式引退する前のビルバオ時代末期、1947-1948シーズン頃には既に[[セグンダ・ディビシオン]]所属の[[バラカルドCF]]の指導を始めていた<ref>http://barakaldocf.com/entrenadores/ [[バラカルドCF]] 2019年1月20日閲覧。</ref>。引退後はビルバオでそのまま監督に就任し、1949年から1952年までの任期中にコパ・デル・ヘネラリシモ1950、[[コパ・エバ・ドゥアルテ]]1949-1950を制するも、リーグ優勝はならなかった。ビルバオでは103試合指揮を執り54勝17分32敗であった。
 
==<small>== スペイン代表での経歴</small> ====
ビルバオ退団後は[[レアル・バリャドリード]]、[[セルタ・デ・ビーゴ]]を短期間率い、前者では[[コパ・フェデラシオン]]1952-1953にトップチームの陣容で優勝した<ref>https://www.bdfutbol.com/es/l/l8172.html BDFutbol 2019年1月20日閲覧。</ref>。1955年10月にイララゴーリは[[エルクレスCF]]の監督に就任<ref>http://hemeroteca.mundodeportivo.com/preview/1955/10/30/pagina-4/631641/pdf.html [[ムンド・デポルティーボ]] 1月20日閲覧。</ref>、ビルバオ時代の恩師[[パトリシオ・カイセド]]監督の解任とウルグアイ人の暫定監督セルヒオ・ロドリゲスからバトンを受け取ってのもので、イララゴーリはセグンダ降格の危機に瀕するチーム状態をよく立て直したが、しかし最終的にチームを残留に導くことは出来なかった。
イララゴーリはスペイン代表に19歳で集され、[[サン・マメス (1913年)|サン・マメス]]で[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]と0-0で引き分けた、1931年4月19日の親善試合にてデビューした。
 
[[国際Aマッチ]]7キャップ・2ゴールを記録したが、そのうちのひとつはスペイン代表の歴史に残るものとなった。
その後、当時セグンダ・ディビシオン所属で[[ビルバオ]]をホームタウンとする小クラブ、[[ソシエダ・デポルティーバ・インダウチュ]]の監督を2期・2年間務め、その後は同クラブのフロントでGMに就任した。
 
スペインが初めて本大会に出場した[[1934 FIFAワールドカップ]]1回戦の[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]戦で、イララゴーリは前半18分にペナルティキックを決めてチームに先制点をもたらしたが、これはスペインがW杯本大会で記録した最初のゴールであった。試合はその後[[リーガ・エスパニョーラ1933-1934|プリメーラ・ディビシオン1933-1934]]得点王の[[イシドロ・ランガラ]]が2点を追加し3-0と大きくスペインがリード。その後ブラジルの反撃を[[レオニダス・ダ・シルバ|レオニダス]]の1点に抑えて勝利した<ref>[https://www.naiz.eus/eu/hemeroteca/gara/editions/gara_2014-06-15-07-00/hemeroteca_articles/el-chato-de-galdakao NaizEl Chato de Galdakao] Naiz、2014年6月15日、2019年1月20日閲覧</ref>。
1983年4月27日、生地バサウリの隣町ガルダカオで亡くなった。享年71歳。
 
準々決勝イタリア戦でも先発し、チームは1-1と引き分けた<ref>[https://es.fifa.com/worldcup/matches/round=204/match=1111/index.html#nosticky ITALY 1-1 ESPAÑA] [[国際サッカー連盟|FIFA]] 2019年1月20日閲覧</ref>。再試合には起用されず、スペインは0-1で敗れベスト8で姿を消した<ref>[https://es.fifa.com/worldcup/matches/round=418/match=1123/index.html#nosticky ESPAÑA 0-1 BRASIL] [[国際サッカー連盟|FIFA]] 2019年1月20日閲覧</ref>。
==<small>スペイン代表での経歴</small>==
イララゴーリはスペイン代表に19歳で召集され、[[サン・マメス (1913年)|サン・マメス]]で[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]と0-0で引き分けた、1931年4月19日の親善試合にてデビューした。
 
=== 指導者時代 ===
[[国際Aマッチ]]7キャップ・2ゴールを記録したが、そのうちのひとつはスペイン代表の歴史に残るものとなった。
イララゴーリはまだ正式引退する前のビルバオ時代末期、1947-1948シーズン頃には既に[[セグンダ・ディビシオン]]所属の[[バラカルドCF]]の指導を始めていた<ref>[http://barakaldocf.com/entrenadores/ Entrenadores] [[バラカルドCF]] 2019年1月20日閲覧</ref>。引退後はビルバオでそのまま監督に就任し、1949年から1952年までの任期中にコパ・デル・ヘネラリシモ1950、[[コパ・エバ・ドゥアルテ]]1949-1950を制するも、リーグ優勝はならなかった。ビルバオでは103試合指揮を執り54勝17分32敗であった。
 
ビルバオ退団後は[[レアル・バリャドリード]]、[[セルタ・デ・ビーゴ]]を短期間率い、前者では[[コパ・フェデラシオン]]1952-1953にトップチームの陣容で優勝した<ref>[https://www.bdfutbol.com/es/l/l8172.html BDFutbolIraragorri: José Iraragorri Ealo] BDFutbol、2019年1月20日閲覧</ref>。1955年10月にイララゴーリは[[エルクレスCF]]の監督に就任<ref>[http://hemeroteca.mundodeportivo.com/preview/1955/10/30/pagina-4/631641/pdf.html Edición del ??? 30 10? de 1955, Página 4] [[ムンド・デポルティーボ]] 、1955年10月30日、2019年1月20日閲覧</ref>、ビルバオ時代の恩師[[パトリシオ・カイセド]]監督の解任とウルグアイ人の暫定監督セルヒオ・ロドリゲスからバトンを受け取ってのもので、イララゴーリはセグンダ降格の危機に瀕するチーム状態をよく立て直したが、しかし最終的にチームを残留に導くことは出来なかった。
スペインが初めて本大会に出場した[[1934 FIFAワールドカップ]]1回戦の[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]戦で、イララゴーリは前半18分にペナルティキックを決めてチームに先制点をもたらしたが、これはスペインがW杯本大会で記録した最初のゴールであった。試合はその後[[リーガ・エスパニョーラ1933-1934|プリメーラ・ディビシオン1933-1934]]得点王の[[イシドロ・ランガラ]]が2点を追加し3-0と大きくスペインがリード。その後ブラジルの反撃を[[レオニダス・ダ・シルバ|レオニダス]]の1点に抑えて勝利した<ref>https://www.naiz.eus/eu/hemeroteca/gara/editions/gara_2014-06-15-07-00/hemeroteca_articles/el-chato-de-galdakao Naiz 2019年1月20日閲覧。</ref>。
 
その後、当時セグンダ・ディビシオン所属で[[ビルバオ]]をホームタウンとする小クラブ、[[ソシエダ・デポルティーバ・SDインダウチュ]]の監督を2期・2年間務め、その後は同クラブのフロントでGMに就任した。
準々決勝イタリア戦でも先発し、チームは1-1と引き分けた<ref>https://es.fifa.com/worldcup/matches/round=204/match=1111/index.html#nosticky [[国際サッカー連盟|FIFA]] 2019年1月20日閲覧。</ref>。再試合には起用されず、スペインは0-1で敗れベスト8で姿を消した<ref>https://es.fifa.com/worldcup/matches/round=418/match=1123/index.html#nosticky [[国際サッカー連盟|FIFA]] 2019年1月20日閲覧。</ref>。
 
1983年4月27日、生地[[バサウリ]]の隣町[[ガルダカオ]]で亡くなった。享年71歳。
==<small>タイトル</small>==
 
===  現役時代 ===
==<small> タイトル</small> ==
===  現役時代 ===
*{{Flagicon|ESP}}[[コパ・デル・レイ]]優勝:2回 (1930、1931)
*{{Flagicon|ESP}}共和国大統領杯優勝:2回 (1934、1936)
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*{{Flagicon|MEX}}[[リーガMX]]優勝:1回 (1944-1945)
 
===  指導者時代 ===
*{{Flagicon|ESP}}コパ・デル・ヘネラリシモ優勝:1回(1949-1950)
*{{Flagicon|ESP}}コパ・エバ・ドゥアルテ優勝:1回(1949-1950)
*{{Flagicon|ESP}}コパ・フェデラシオン優勝:1回 (1952-1953)
 
== 脚注 ==
==<small>出典</small>==
{{Reflist}}
<references responsive="" />
 
==<small> 外部リンク</small> ==
*[https://www.athletic-club.eus/jugadores/jose-iraragorri-ealo ホセ・イララゴーリ(選手時代)]アスレティック・ビルバオ公式サイトの紹介:ホセ・イララゴーリ・エアロ (選手時代)]
*[https://www.athletic-club.eus/entrenadores/jose-iraragorri ホセ・イララゴーリ(指導者時代)] アスレティック・ビルバオ公式サイトの紹介:ホセ・イララゴーリ・エアロ (監督時代)]
*[http://www.sefutbol.com/jugadores/iraragorri サッカースペイン代表公式サイトの紹介:ホセ・イララゴーリ・エアロ (1931-1936)] サッカースペイン代表公式サイト
 
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[[Category:スペインのサッカー選手]]
[[Category:スペインのサッカー指導者]]