「小早川秀秋」の版間の差分

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* 秀秋はその高台院から五百両にもおよぶ莫大な借金をしているが、それ以外にも客人への借金申し込みもしており<ref>慶長7年4月20日付小早川秀秋印判状</ref>、生活は奢侈なものであったようである。
* 正室である長寿院は[[毛利輝元]]の養女であり、文禄3年(1594年)秀秋の小早川家への養子入りにともなって結婚したものであるが、この結婚は毛利家にとって気苦労の多いものだったらしい。秀吉の死で情勢が変化したことにより、慶長4年(1598年)9月頃、秀秋と別の女性の間に子供が生まれ、これに家康が介入し[[江戸]]下向を勧めたことを契機として、同年中に離縁がまとまり実家に帰ったようである。秀秋生前の慶長7年(1602年)8月、[[興正寺]]18世・[[准尊]]に再嫁している<ref>{{Citation|和書|author=西尾和美|chapter=第4章 豊臣政権と毛利輝元養女の婚姻|editor1=[[川岡勉]]|editor2=古賀信幸|series=日本中世の西国社会1|title=西国の権力と戦乱|publisher=清文堂出版|year=2010}}</ref>。
* [[明治]]になり毛利家の願い出により、小早川本家再興の勅命が下った。そして、毛利本家からの養子により、小早川本家は再興した。{{独自研究範囲|date=2019年2月16日 (土) 02:55 (UTC)|このことは、多数の分家が存在しているのにもかかわらず、通常の親等順による継承権を無視していることから、明治維新の政変による政界の横暴だと認識される。すなわち、この小早川本家は、自称であると判断される。}}
* [[東京国立博物館]]には秀秋所用と伝わる「猩々緋羅紗地違い鎌模様陣羽織」{{smaller|(しょうじょうひ らしゃじ ちがいがま もよう じんばおり)}}が所蔵されている。鮮やかな[[猩々緋]]地の[[ウール|羅紗]]の[[陣羽織]]で、背中いっぱいに「違い鎌」紋様を、敵をなぎ倒す尚武的意義と[[諏訪明神]]の神体として[[アップリケ|置布刺繍]]で貼付けてある。大胆な意匠が印象的な逸品で、当時の武将の戦陣装束をよく今に伝えている( → [http://www.tnm.jp/uploads/r_collection/LL_36.jpg 画像])。