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墓所は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[三田 (東京都港区)|三田]]の[[実相寺 (港区三田)|実相寺]]。法名は聖光院殿穏誉寂清安大姉。
[[万治]]元年([[1658年]])[[7月28日 (旧暦)|7月28日]]に、[[出羽国|出羽]][[米沢藩]]主[[上杉綱勝]]に嫁いでいた長女媛姫が急死した。この死について、正之の側室お志保の方(牛田氏)の産んだ摩須姫(会津藩では松姫)が大藩の[[加賀藩]]主[[前田綱紀]]に嫁ぐことに於万の方が嫉妬し、摩須姫を毒殺しようとして誤って媛姫を毒殺したという言い伝えがあり、現在定説になっている。この容疑で周囲の者が処刑され、於万の方は死罪を免れたが、正之から遠ざけられ、以後は三女[[石姫]]の夫[[稲葉正往]]の世話になったという。
その出所は、会津藩の正史『[[会津藩家世実紀]]』で、「松姫の婚礼で実家へ里帰りしていた媛姫の具合が悪くなり婚礼の2日後に亡くなった」とある。その後に本文への小文字補填として、「毒が入った松姫の御膳がお付きの者の機転で取り替えられたため、媛姫がその毒入り膳を食べて死んだと伝わっている」とある。本文に対して、百年以上の後の編纂時に付け加えた補填文が元になっている。
『会津藩家世実紀』の本文では、媛姫は急病死とされ、その後に保科家・上杉家とも一切捜査も処分もされた形跡がない。
正之の不興を買って罷免された家臣
毒殺説の元は、『会津藩家世実紀』の他に『松平小君略伝』がある。『松平小君略伝』も於万の方の没後100年以上後の[[文化
[[
== 子女 ==
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* 宮崎十三八編『保科正之のすべて』 [[新人物往来社]]、1992年。
* 別冊歴史読本『名君保科正之と会津松平一族』 新人物往来社、2005年。
* 藩家世実紀刊本編纂委員会『会津藩家世実紀』全15巻 吉川弘文館
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[[Category:会津松平氏]]▼
[[Category:江戸時代の大名の正室]]
[[Category:江戸時代の大名の側室]]<!--側室から正室に挙がった例はまれなので併せて付けておく-->
[[Category:会津藩の人物]]
[[Category:1620年生]]
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