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=== 中国の爵位「国王」 ===
[[前漢]]以降の中国では、「王」は皇帝に服する称号で<!--国王の意味では用いられなくなり-->、[[爵位]]の一つ([[諸侯王]])となった。爵位としての「王」は皇帝に次ぐものとされ、皇帝の一族や功臣が各郡などに封じられるときに与えられた。また、皇帝の支配の及ばない外国の君主にも「王」を与えることで、「世界を支配している」という事実を作ろうとした([[冊封体制]])。そのため、中華文化圏では「王」は中国皇帝から賜る称号の一つであり、中国皇帝に臣従した証しとなった。[[隋]]代には「国王」「郡王」の爵位が用いられ、「国王」は「郡王」などより格上の爵位ではあったが、国家の君主である国王の意味は持たなかった。そのため実際には国王であっても、あまり重要視しない国王の場合は、「郡王」などの格下の称号が与えられる場合があった。「王」の字を用いた爵位としては他に「[[親王]]」「嗣王」「[[藩王]]」が知られる。
 
== 西洋の国王 ==
[[ヨーロッパ]]には元々は各地域ごとに君主の名称があった。初期の[[神聖ローマ帝国]]においては、君主には'''国王'''、[[皇帝]]、大公/公([[プリンス]])の3つの概念があり、国王のうち[[教皇]]から皇帝として承認を受けた者のみが皇帝であり、国王とするほどではない小君主が総称的にプリンスと呼ばれた。
 
ヨーロッパの多くの皇帝が[[ローマ帝国]]を起源としているのに対し、英語の king のような[[ゲルマン語派|ゲルマン系]]の王の名称は血統を意味する kin から派生しているため、より血統が重視された。皇帝は実力のある者が推戴されることが建前であり、このためローマ帝国、[[東ローマ帝国]]ではしばしば実力者が武力闘争や[[クーデター]]によって皇帝となり、神聖ローマ帝国では[[選挙君主制|選挙制]]が維持された。[[コルシカ島]]生まれの軍人に過ぎない[[ナポレオン・ボナパルト]]が皇帝に即位したのは、王に即位すれば反革命とみなされかねないという事情もあるが、皇帝が国民から推戴される存在という意識があったことも背景にある。
 
[[ゲルマン人|ゲルマン系]]の王は元々は戦争時に臨時に選ばれるもので、これがゲルマン、[[スラヴ人|スラヴ系]]の[[選挙君主制|選挙王制]]につながり、前述の神聖ローマ帝国の帝位の選挙制もこれに由来するという事情もあるが、この場合でも王位については、その血統を引くことが選出の条件となった。また[[ケルト人|ケルト系]]の[[タニストリー]]制でも王の血統を持つ者から選ばれる。近代に入って新たに独立した国々が王制を採用した場合、多くの国では最初から王が存在しないか、既に王家の血統が絶えていることが多かったが、その場合でも自国の貴族から選ぶより、他国から君主の一族を招いて王とすることがしばしばあったのも、王となるのは王の血統を引いた者といった概念があったからである。また、ゲルマン諸族において別の部族の有力者を王に推戴した前例があったことから、血統を最優先し他国の者であっても王として迎え入れることを厭わない傾向に拍車をかけることとなった。ヨーロッパではほとんどの場合、王朝交代があっても傍系か[[女系]]の血統を引いている。
 
他国から王を迎え入れる場合、ドイツ系が非常に多かったが、これは神聖ローマ帝国が統一されず、国内に王号やそれに準ずる爵位を保持する[[領邦]]君主が多数存在し、ひいては王位を継ぐにふさわしい家系が多数存在したからである。なおかつ神聖ローマ帝国内の小国であるので、そこから王を迎え入れても自国への干渉や支配を排除できたからである。皇帝が実力制・選挙制であるため、過去に神聖ローマ皇帝を輩出した家系が多数存在し、逆説的にそういった家系が王家にふさわしい血統と認識されたという事情もある。
 
<!--皇帝と国王の違いに着眼した点は良いのですが、具体的な間違いが多いため出来るだけ趣旨を生かして書き換えました。rexはreign等と同系統で統治の意味です。オクタヴィアヌスが王にならなかったのは共和制のローマで王に対する抵抗感が大きかったことが主原因でしょう。また、カエサルが王になろうとしたと思われて殺されたことや、傘下に王がいたためそれ以上の称号が必要だったとも言えるでしょう。ナポレオンは家族を国王にしてますから、単に皇帝のほうが偉いから選択したのでしょう。また王権神授説は皇帝を排除しているわけではありません-->
<!--
[[英語]]の[King],[[ラテン語]]の[rex]ともに「血筋が良いもの」という意味があり、世襲の君主を言い表した。そのため[[古代ローマ]]では[[エリトリア]]の王が追放されてから王にふさわしいものがいないとされた。のちに[[オクタヴィアヌス]]が王に即位することを勧められたがそれを固持したのは「王たる血統を持っていない」のいいうのが理由であった。そのため「元首」となり[[プリンケパトゥス]]をはじめ、それが[[皇帝]]制度の発祥となる。このように、王になるには血統という先天的な条件があるのに対し皇帝は実力があれば誰にでもなれるという違いがヨーロッパではあった。のちに[[ポーランド]]などでは[[選挙王政]]も行われたがその際にも選挙に立候補できるのは血統が必要であった。王家に生まれたものだけが王になれるという「選良意識」が『[[王権神授説]]』の根拠となる。そのため[[コルシカ島]]生まれの軍人に過ぎない[[ナポレオン・ボナパルト]]が「王」ではなく「皇帝」になったのもその所以である。
-->
[[王位継承法]]により女性の王位継承を認める場合とそうでない場合がある。[[フランス王国|フランス]]や[[ドイツ]]など[[サリカ法]]を採る地域では女性の王位継承を認めない例が多い。[[近代]]では女性の王位を認める国が増えている。女性の場合[[女王]]という。
 
== 現在の「国王」 ==
<!--外交上の[[プロトコール]]では皇帝と[[教皇]]が王公に優越することになっているが、現在「皇帝号」を有する唯一の国、[[日本]]では、[[明治時代]]からの慣例で天皇と他国の君主を対等なものとして遇している。-->
近代では[[立憲君主制]]を採用する国が多く、そのような国では国王の役割は儀礼的なものとなってきているが、外交や公式・非公式な場での発言などによる政治的な影響力は大きい。
 
== 現在の国王一覧 ==
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|-
|[[明仁]]
|[[佐々木崇]] (3000代国王)
||{{JPN}}<ref group="注">正確には国王ではなく[[天皇]]。
天皇は政治的権限は一切保有するしない。</ref>
|{{年数|19941933|1012|1023}}歳
|[[19941989年]][[101107日]]
|-
|[[ハサナル・ボルキア]]
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!齢
!在位年
|-
|[[エリザベス2世]]
|{{GBR}}<br> [[画像:Personal flag of Queen Elizabeth II.svg|20px]] [[英連邦王国]]
|'''{{年数|1926|4|21}}歳'''
|'''[[1952年]][[2月6日]]'''
|-
|[[マルグレーテ2世 (デンマーク女王)|マルグレーテ2世]]
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|}
 
=== アフリカ ===
{| class="wikitable sortable"
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:[[ロマノフ朝]]第14代にして最後の[[ロシア帝国|ロシア]][[ロシア皇帝|皇帝]](在位[[1894年]][[11月1日]]&nbsp;-&nbsp;[[1917年]][[3月15日]])
:[[アレクサンドル3世]]の子。
:[[日露戦争]]中に[[ロシア第一革命]]にあい国会を開設。[[第一次世界大戦]]に参戦するも[[2月革命 (1917年)|二月革命]]により退位させられその後[[ロマノフ家の処刑|処刑]]された。
 
== 中国 ==