「城南宮」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
「永享10年(1438年)に稲荷山の山頂にあった稲荷の祠を麓の藤尾に遷座(現、伏見稲荷大社)し、その地にあった藤尾社を藤森に遷座(現、藤森神社)した。そのため、この地にあった真幡寸神社を現在地に遷座したという」等の文章の追加と校正。
m -dab(上皇)
19行目:
 
==歴史==
創立年代は不詳である。この地にあった式内社「真幡寸神社」に、神功皇后の[[三韓征伐]]の際に船上に立てた旗に神功皇后・八千戈神(大国主神)の神霊を添えて奉斎したのに始まると伝える。[[平安京|平安]]遷都の際に国常立尊が併祀され、城(平安京)の南にあることから「城南神」と呼ばれた。[[白河天皇]]が[[鳥羽離宮|鳥羽離宮(城南離宮)]]を造営してからはその一部となり、離宮の鎮守社として代々の[[天皇]]や[[太上天皇|上皇]]の行幸がしばしばあった。また後代になると[[京都御所]]の[[鬼門|裏鬼門]]を守る神となったことから[[貴族]]の[[方違]]の宿所となり、方除けや厄除けの神としても信仰されるようになった。
 
[[応仁の乱]]などの戦乱で荒廃したが、[[江戸時代]]になって復興された。幕末の[[文久]]3年([[1863年]])には[[孝明天皇]]の[[攘夷]]祈願の行幸があった。新政府軍の掲げる[[錦の御旗]]の前に旧幕府軍が総崩れとなった[[慶応]]4年([[1868年]])の[[鳥羽・伏見の戦い]]の主戦場となったものこの地である。