「ピーター・ウィレム・ボータ」の版間の差分

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[[1948年]]、国民党から国会議員に立候補し当選する(地盤は[[ケープ州]]東部)。この選挙で国民党を中心とする[[ダニエル・フランソワ・マラン]]四党連立政権は、アパルトヘイト政策を本格的に推進することとなる。[[1958年]]に発足した[[ヘンドリック・フルウールト]]政権では副内相に就任。
 
[[1966年]]、[[バルタザール・フォルスター]]内閣で国防相に就任する。ボータは{{仮リンク|南アフリカ国境紛争|en|South African Border War}}を担当し、{{仮リンク|南アフリカ防衛軍|en|South African Defence Force}}はこの戦争を機に戦力を充実させて単なる[[イギリス]]の補助部隊ではなくなり、国家予算の20%も軍事力強化に充てることとなった<ref>Gregory, Joseph R. (1 November 2006). "P. W. Botha, Defender of Apartheid, Is Dead at 90". The New York Times</ref>。ボータは[[ソビエト連邦]]や[[キューバ]]に対抗して[[アンゴラ内戦]]と[[モザンビーク内戦]]のような地域紛争に軍事介入する方針を決定し、{{仮リンク|サバンナ作戦 (アンゴラ)|en|Operation Savannah (Angola)|label=サバンナ作戦}}では[[アンゴラ]]に武力侵攻を行い、[[南西アフリカ警察対不正規戦部隊|クーフト]]や[[第32大隊 (南アフリカ)|第32大隊]]なども組織した<ref>Stapleton, Timothy (2013). A Military History of Africa. Santa Barbara: ABC-CLIO. pp. 251–257. ISBN 978-0313395703.</ref>。特に南アフリカと連携していた[[アンゴラ全面独立民族同盟]](UNITA)の[[ジョナス・サヴィンビ]]議長とは親交を結び、サビンビから[[象牙]]の[[AK-47]]をボータは贈られた<ref>{{cite web | url=http://articles.latimes.com/1998/jan/23/news/mn-11334/2 | title=Apartheid Leader's Museum Exhibit Fails to Exert Its Old Draw | work=[[ロサンゼルス・タイムズ]] | date=1998-01-23| accessdate=2019-02-16}}</ref>。また、ボータは核開発計画を推し進め、南アフリカを[[核保有国]]にさせることに成功した<ref>{{Cite web|url=http://nuclearweaponarchive.org/Safrica/SABuildingBombs.html|title=South Africa's Nuclear Weapons Program - Building Bombs|website=nuclearweaponarchive.org|access-date=2018-01-09}}</ref>。[[1975年]]に秘密裡の軍事協力である{{仮リンク|イスラエル・南アフリカ協定|en|Israel–South Africa Agreement}}を締結した際、当時[[イスラエル]]の防衛大臣だった[[シモン・ペレス]]に3つの核弾頭らしき武器の提供をボータは要請していたことは後に物議を醸した<ref>{{cite news |url=https://www.theguardian.com/world/2010/may/23/israel-south-africa-nuclear-documents |title=The memos and minutes that confirm Israel's nuclear stockpile |newspaper=The Guardian |first=Chris |last=McGreal|date=23 May 2010}}</ref>。
 
[[1978年]]9月、フォルスターが辞任し、議会によって後継首相に選出された。ボータは前任のフォルスターよりも政治家としては[[プラグマティスト]]であり、[[バンツースタン|ホームランド]]の自治を積極的に推し進めた。ボータの後任の国防相となった{{仮リンク|マグナス・マラン|en|Magnus Malan}}とともに[[インカタ自由党]]を支援して黒人勢力を分裂させることで[[分割統治]]も図ったとされる<ref>Berkeley, Bill (2001). The Graves are Not Yet Full.</ref>。
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[[1984年]]、[[立法]]・[[行政]]の両権を[[白人]](定数:178人、内任命議席が12)、[[カラード]](定数:85人)、[[インド]](定数:45人)系国民に分与して白人単独の支配体制から「三人種体制」に移行([[人種別三院制議会]])、憲法改正により首相職を廃止し大統領の権限を強化する。[[1985年]]にはアパルトヘイト政策を成す、[[雑婚禁止法]]、[[背徳法]]の廃止に踏み切るものの、同政策の基幹3法({{仮リンク|原住民土地法|en|Natives Land Act, 1913}}、{{仮リンク|集団地域法|en|Group Areas Act}}等)の撤廃に関しては断固拒否した。[[1987年]]の総選挙では123議席を獲得し(任命議席を併せ133)支配体制を強化した。
 
[[1986年]]、南アフリカ全土に黒人暴動が拡大すると非常事態を宣言するとともに、[[ネルソン・マンデラ]]を釈放しようとした。しかし、これは国際社会及び国内世論の非難回避をねらったものであり、反アパルトヘイトの運動は徹底的に弾圧する姿勢だった。このことは次第に国民党の穏健派から反発される。一方で、ボータの実利的な政策を、「'''日和見的'''」と批判する[[アンドリース・トリューニヒト]]ら国民党の保守派も[[1982年]]に国民党を離党して{{仮リンク|保守党 (南アフリカ)|en|Conservative Party (South Africa)|label=保守党}}を結成することになる。
 
[[1989年]]、[[フレデリック・ウィレム・デクラーク|F・W・デクラーク]]にその座を譲り、大統領を辞任した。アパルトヘイト体制崩壊後に発足した[[真実和解委員会]]での証言は最後まで拒否し続け<ref>{{cite news|url=https://www.independent.co.uk/news/afrikaners-champion-bothas-cause-of-silence-1137403.html|title=Afrikaners champion Botha's cause of silence|date=8 January 1998|author=Mary Braid|work=The Independent |location=UK|accessdate=2019-02-16}}</ref><ref>{{cite web|last1=McGreal|first1=Chris|title=Botha's Conviction Overturned|url=https://www.theguardian.com/world/1999/jun/02/chrismcgreal1|website=The Guardian|accessdate=2019-02-16}}</ref>、[[人種差別]]的な自らの持論を改めることはなかった<ref>Interview made in 2006; https://vimeo.com/18610881</ref>。しかし、マンデラとは政治的な立場を超えて個人的には友好関係を築いていた<ref>{{Cite news|url=https://www.independent.co.uk/news/world/africa/mandela-and-botha-the-crocodile-the-saint-744730.html|title=Mandela and Botha: The crocodile & the saint|last=[[インデペンデント]]|date=2006-11-02|work=|accessdate=2019-02-16}}</ref>。