「永井直勝」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[永禄]]6年([[1563年]])、[[三河国]]の武将・[[長田重元]]の次男として三河国[[碧海郡]][[大浜町 (愛知県)|大浜郷]](現在の[[碧南市]]音羽町)に生まれる<ref>碧南市音羽町にある宝珠寺には、永井直勝生誕の地の碑が建てられている。</ref>([[東浦町]]緒川の説もある<ref>[http://aichitahigasiura.jimdo.com/東浦の歴史-1/永井直勝は緒川の生まれか育ちか/ 永井直勝は緒川の生まれか育ちか]</ref>)。
 
[[天正]]4年([[1576年]])、はじめ[[徳川家康]]の嫡男・[[松平信康|信康]]に仕えたが、[[天正]]7年([[1579年]])に信康が自刃すると、[[徳川氏]]を去って隠棲した。天正8年([[1580年]])、家康に召し出されて再び家臣となる。天正12年([[1584年]])の[[小牧・長久手の戦い]]では[[池田恒興]]を討ち取る大功を挙げたため、家康や[[織田信雄]]らから賞賛された。[[文禄]]3年([[1594年]])、恒興の次男・[[池田輝政]]が家康の次女の[[督姫]]を娶った際、輝政の求めに応じて、長久手の戦いで恒興を討ち取った際の事を語った。このとき、直勝の知行が5000石と知った輝政は、父を討ち取った功績の価値が5000石しかないのかと嘆息したという。