「長岡安平」の版間の差分

(→‎参考文献: +{{Normdaten}})
[[東京市]]発足に伴い、府立公園は1898年(明治31年)東京府より東京市に引き継がれたため、長岡も東京市役所に転職。市役所でも公園の仕事に関係した。1900年(明治33年)にいったん辞して翌年再任。この間は特に1897年(明治30年)に設置された公園改良取調員会の元、[[東京市区改正事業]]に伴い設置予定していた[[日比谷公園]]の設計案の作成にあたっていた。[[日比谷公園]]は結局[[本多静六]]らの設計によって1903年開園する。
 
1902年に[[逓信省]][[営繕]]に移り、逓信営繕が関わる諸[[官舎]][[庭園]]の設計と監督指導に従事。1904年(明治37年)からは東京市[[嘱託]]になり、1914年まで東京市内の公園関係の職に従事した。つまり東京の公園業務には、1878年から1914年末まで40年間の長期にわたって関わった。1925年(大正14年)12月20日、芝白金三光町(現・[[港区 (東京都)|港区]][[白金台]])の自宅において84歳で長逝する。[[墓地]]は[[青山霊園]]にある。
 
長岡の住まいは長く旧芝公園内にあった。旧居址の碑が[[東京市]]において長岡の部下として公園事業を手伝い、後に公園部長となった井下清らによって建てられたが、現在は消滅。