「鷲塚村」の版間の差分

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== 歴史 ==
古代は[[幡豆郡]]志貴庄に属したが、中世に[[矢作川]]の改修で[[碧海郡]]に編入された。戦国期まで[[矢作川]]は現在の流路を取らず、鷲塚村は東の入り江に突き出す半島(島という説もある)の港町であり、[[油ヶ淵]]は北浦と呼ばれる大きな入り江であった<ref>『日本歴史地名体系 愛知県の地名』鷲塚村の項</ref>。鷲塚湊はどの風向きでも碇泊できる安全性があり、隣の大浜湊の外港的存在として栄えた。
鷲塚に人が住み始めたのは鎌倉末期、その草分けは神谷・河原・大岡・片山・与吾・青木・鷲塚で「鷲塚の七軒」といわれる。<ref>鷲塚小学校開校百年誌部会『鷲塚小学校の百年』</ref>
 
* [[1464年]](寛正5年) - [[蓮如]]が尾張からの参詣人のために鷲塚村に真宗寺を創建する。翌々年土呂(岡崎)に移す。
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* [[1644年]](正保元年) - 米津から鷲塚まで堤防が築かれ、[[油ヶ淵]]が形成される。
 
江戸時代、鷲塚湊は碧海郡[[大浜町 (愛知県)|大浜]](現碧南市)、幡豆郡[[平坂町|平坂]](現西尾市)、宝飯郡犬飼(宝飯郡[[塩津村 (愛知県)|竹ノ谷村]]、現蒲郡市)、御馬(宝飯郡[[御津町 (愛知県)|御馬村]]、現豊川市御津町)とともに「三河五箇所湊」として知られた。[[1798年]](寛政10年)の御城米船番組に所属した廻船は、最大の大浜湊で10艘、鷲塚は1艘、平坂は6艘であった(支配船一件帳)。古代国府の港として栄えた御津の御馬湊とともに、鷲塚湊は幕府領の米を運ぶ港に指定されていた。<ref>『日本歴史地名体系 愛知県の地名』大浜町の項</ref>
 
藩政期の鷲塚村は、初め西尾藩領、[[1659年]](万治2年)幕府領、[[1726年]](享保11年)岡崎藩領、[[1763年]](宝暦13年)幕府領、[[1782年]](天明2年)沼津藩領、この沼津藩領は[[1868年]](慶応4年)上総に国替となり、菊間藩として明治に至る。
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== 出身人物 ==
* [[近藤坦平]](医師) - 西洋医学教育の先駆けとなる医師。
 
== 脚注 ==
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<references />
 
== 参考文献 ==