「銭村健四」の版間の差分

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収容所時代は年齢が満たず、兵役に服することはなかったが、年齢が達すると[[第二次世界大戦|第二次大戦]]の後始末で[[徴兵]]された<ref name="池井" />。兄・健三はアメリカ国内勤務に就いたが、健四は[[イタリア]]勤務となり[[ユーゴスラビア]]との[[国境]]で任務に就く<ref name="池井" />。一旦帰国するが1950年[[朝鮮戦争]]の勃発で再び徴兵され、[[大韓民国|韓国]][[ソウル特別市|ソウル]]から10キロ程南の小高い丘の上の監視所に就く<ref name="池井" />。[[黄疸]]を発症し治療のため監視所を降りた翌日、中国共産党軍の攻撃で監視所の兵員30人が全員死亡した<ref name="池井" />。韓国では充分な治療が出来ず、日本へ送られ[[京都]]の病院に入院した。知らせを受けた、当時東洋工業(現・[[マツダ]])に勤務していた健次が駆けつけ、ハワイの祖父母宅にいた頃、生後8ヶ月に会って以来23年ぶりの対面を果たした<ref name="池井" />。健康を回復した後、故郷フレズノに帰り、国内勤務を終え、兵役経験者に優先的に与えられる[[奨学金]]を得て[[カリフォルニア州立大学フレズノ校|フレズノ大学]]に入学。野球部で活躍していた健三を追い同じコースを歩んだ<ref name="池井" />。
 
[[1952年|1952年、]]フレズノ大学での活躍が認められ、全米学生選抜の選手として来日<ref name="野球小僧remix プロ野球[外国人選手]大事典 P17">野球小僧remix プロ野球[外国人選手]大事典、白夜書房、2011年、P17</ref>。[[早稲田大学野球部|早稲田]]の[[広岡達朗]]・[[小森光生]]、[[慶應義塾体育会野球部|慶應]]の[[花井悠]]、[[関西大学野球部|関大]]の[[大津淳]]らで固めた日本学生選抜軍相手に主にトップバッターとして駿足好打を披露した<ref name="池井" />。その活躍に目をつけた、健次の勤める東洋工業の[[松田恒次]]が健次に「君の弟をカープに入れないか」と誘い、健次は父・健一郎に連絡<ref name="池井" />。健一郎は「銭村一家から職業選手が出るのもいいじゃろ。ただ健四は[[日本語]]がようでけんから健三を最初つけてやろう。それにワシが育てた[[光吉勉]]といういい投手がおる。このベン光吉と三人で行かせたい」と言った<ref name="池井" />。しかしフレズノから三人を招くには400万円が必要だった。[[石本秀一]]カープ初代監督らの尽力により、翌年広島カープが[[募金]]で集めた400万円で補強選手として兄・健三、同じく日系二世の光吉と共に来日し19521953年シーズンが開始して約2ヶ月たった6月19日入団した<ref name="池井" />。[[広島駅]]前広場は三選手を見ようと6000人のファンが集まり「故国へ帰った銭村兄弟」を迎えた。続いて[[オープンカー]]による市中[[パレード]]は、天皇巡幸をしのぐ10万人の人出となり、[[紙吹雪]]が舞った<ref name="池井" />。三人の加入が人気を呼び、健四と光吉が初出場した6月21日の[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦は[[広島県総合グランド野球場|広島総合球場]]は同球場始まって以来の超満員となった<ref name="池井" />。
 
小柄ながら健四は抜群の走塁や好守備でファンをわかせた。一方で同じく入団した光吉勉は[[肩]]の[[故障]]でいい結果が残せず、兄の健三に至っては「夏休みのアルバイトで来た」と言って[[8月]]のシーズン途中に帰ってしまった。二人は日本に馴染めなかったといわれる<ref name="池井" />。