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1764年にハミルトンと決裂した後、1765年に[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の派閥の領袖[[ロッキンガム侯]][[チャールズ・ワトソン=ウェントワース (第2代ロッキンガム侯)|チャールズ・ワトソン=ウェントワース]]の秘書となり、[[バッキンガムシャー]]から選出されて英国[[庶民院 (イギリス)|下院]]議員となる。
 
国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]と「王の友」と呼ばれた[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]員たちが[[名誉革命]]以降制限された諸権限を取り戻そうとする中、1770年に『現代の不満の原因についての考察』により[[政党政治]]の意義を説き、議会の王権からの独立、議会情報の公開を主張した。
 
植民地政策をめぐっては、通商政策を重視し、「アメリカに対する課税」「和解の提案」を記し、アメリカ植民地住民との和解を主張した。また、アイルランドのカトリック教徒を弁護し、経済上・刑罰上の規制緩和を訴えた。さらに、[[イギリス東インド会社|東インド会社]]による腐敗したインド統治を是正するため、[[インド法]]案の起草者となる。初代[[インド総督]]である[[ウォーレン・ヘースティングズ]]に対しては1773年に不信を表明し、後には弾劾運動を始め、1794年に自身が議員を引退するまで続けた{{efn2|[[庶民院]](下院)では7年間の調査のあいだに計148日の議会が開かれたが、1895年に[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]がヘースティングズを放免した。}}。