「田丸一男」の版間の差分

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[[大阪府]][[大阪市]]出身で、現在は[[兵庫県]][[川西市]]に在住。3人の子ども<!--がおり、長男も同じ[[関西学院大学]]卒業で造船メーカー勤務、次男は[[神戸大学]]卒業で大手機械メーカー勤務。長女は[[関西学院大学]]卒業で大手住宅メーカー勤務。-->と、1人の孫がいる。
 
両親は[[阪急百貨店]]の社員だったが、実父は学生時代にNHKのアナウンサーを志していた。その志は果たせなかったものの、学生時代に使用していたアNHKアナウンス読本セント辞典を」(日本放送協会編12が10歳の010時にプレゼント。このプレゼントをきっかけに、毎日放送のアナウンサーを目指すようになった。
 
[[兵庫県立川西緑台高等学校]]から[[関西学院大学]][[経済学部]]へ進学。大学生時代には、[[生田教室]]でアナウンス技術の研鑽を積んだ。その後の就職活動では、第一志望の毎日放送が当時アナウンサーを採用していなかったことから、他局の採用試験を受験。[[テレビ朝日]]の試験では、最終段階まで残ったところで系列局の[[朝日放送テレビ|朝日放送]](毎日放送と同じ在阪民放局)への入社を勧められたが、[[1984年]]に[[日本放送協会|NHK]]へ入局した<ref>同期に[[坂根基志]]、[[佐藤直樹 (アナウンサー)|佐藤直樹]]、[[瀬戸秀夫]]、[[箱守知己]]、[[畑恵]](NHKアナウンサー史編集委員会編『アナウンサーたちの70年』 講談社、1992年、24頁。)。</ref>。田丸が後年述懐したところによれば、[[NHK大阪放送局]]でアナウンサーの採用試験を受けた後に、同局の人事担当者から電話を通じて「あなたと一緒に仕事をさせていただきたい」という言葉で採用の内定を告げられたことが決め手になったという。