「文化大革命」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: Refタグつき記述の除去 サイズの大幅な増減 モバイル編集 モバイルウェブ編集
Pinkpastel (会話 | 投稿記録)
36.37.201.197 (会話) による ID:71767988 の版を取り消し
タグ: 取り消し サイズの大幅な増減
206行目:
 
== 文革の評価 ==
=== 日本における評価 ===
文化大革命が開始された当初は、日本には実態がほとんど伝わっていなかった。だが、[[1966年]]([[昭和]]41年)[[4月14日]]、[[全国人民代表大会常務委員会]]拡大会議の席上で、[[郭沫若]]が「今日の基準からいえば、私が以前書いたものにはいささかの価値もない。すべて焼き尽くすべきである」と、過酷なまでの[[自己批判]]をさせられたことが報じられると、[[川端康成]]、[[安部公房]]、[[石川淳]]、[[三島由紀夫]]も、連名で抗議声明を発表した。
 
声明において、
{{Quotation|「われわれは、左右いづれのイデオロギー的立場をも超えて、ここに学問芸術の自由の圧殺に抗議し、中国の学問芸術が(その古典研究をも含めて)本来の自律性を恢復するためのあらゆる努力に対して、支持を表明するものである・・・学問芸術を終局的には政治権力の具とするが如き思考方法に一致して反対する」|「参考作品1」(共同執筆)『三島由紀夫全集』35巻P635([[新潮社]]『三島由紀夫決定版全集36巻』P477)}}と述べられ、権力の言論への介入を厳しく批判した。
 
三島の友人の劇作家・評論家の[[福田恆存]]も『郭沫若の心中を想ふ』([[文藝春秋]]『福田恒存全集第6巻』に所収)でその言動を「道徳的退廃」として批判したが、郭自身が[[北京市]]で行われた文芸会議で「安全地帯にいる者のお気楽な批判だ」と反論している。
 
[[岡崎久彦]]は1966年に[[外務省]]の資料課長(当時)に着任したが、「中国共産党は、[[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]とちがって、革命意識に燃えた同志たちの集まりであり、ソ連型の権力闘争などありえない」と最後の頃まで信じていた外務省の中国専門家たち<ref>[[満州]]にあった[[満州国・関東州の高等教育機関#ハルピン学院(哈爾浜学院)|ハルビン学院]]や[[上海市|上海]]にあった[[東亜同文書院大学 (旧制)|東亜同文書院]]の出身者ばかりであったという。岡崎久彦「国際情勢判断半世紀」([[育鵬社]]) P.54-55</ref>もついには沈黙せざるをえなくなったといい、当時の中国課長は「'''毛沢東は、もうわれわれが尊敬していた偉大な毛沢東じゃないんだ'''」と吐き捨てるように言ったという<ref>岡崎久彦{{cite web |url=http://www.okazaki-inst.jp/johokanvoice.html |title=『「国家情報官」設置のすすめ』 |accessdate=2016年5月18日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20050617235522/http://www.okazaki-inst.jp/johokanvoice.html |archivedate=2005年6月17日 }}(「[[Voice (雑誌)|Voice]]」 2001年10月号)</ref>。北京の通りの名前を「反帝路」、香港を「駆帝城」に変えるなど最初は何のことかさっぱりわからなかったが、[[1968年]]10月に[[劉少奇]]が失脚したことで毛沢東が復権を画策した権力闘争ではないかとわかったものの、[[延安]]時代に結婚を邪魔された旧怨に対する[[江青]]の復讐の側面があったことがわかるのには、さらに三年を要したという<ref>岡崎久彦「国際情勢判断半世紀」([[育鵬社]]) P.55</ref>。
 
当時は海外メディアが殆ど閉め出された中、[[朝日新聞社]]など一部の親中派メディアは、中華人民共和国国内に残る事が出来た。[[朝日新聞]]は、当時の[[広岡知男]]社長自らが顔写真つきで一面トップに「中国訪問を終えて」と題した記事<ref>{{Cite news|title=中国訪問を終えて 北京にて 朝日新聞社長 広岡知男 松村友好訪中団|newspaper=朝日新聞 朝刊|date=1970-4-22| page=1}}</ref>を掲載したが、そこには文化大革命の悲惨な実態は全く伝えられないままであるだけでなく、むしろ礼賛する内容であった。
 
しかし、その後文化大革命の悲惨な実態が明るみに出ると、これらの親中派メディアを除いて全否定的な評価が支配的となった。それまで毛沢東や文化大革命を無条件に礼賛し、論壇や学会を主導してきた[[安藤彦太郎]]、[[新島淳良]]、[[菊地昌典]]、[[秋岡家栄]]、[[菅沼正久]]、[[藤村俊郎]]、[[西園寺公一]]らの論者に対し、その責任を問う形で批判が集中している<ref>当時[[週刊朝日]]にいた稲垣武『朝日新聞血風録』(文藝春秋)も参照</ref>。批判された者はほとんどの場合沈黙を守り、文革終結後も大学教授などの社会的地位を保ち続けた。新島淳良のみ[[1973年]]という早い時期に大学を辞任しているが、これは中国から公開しない約束で提供された内部文書を帰国後に公開出版し中国から批判されたからで、文革礼賛の責任をとったのではない。
 
批判者としては、[[自由主義]]の立場に立って、反共産主義、反マルクス主義を唱えた[[中嶋嶺雄]]、[[西義之 (ドイツ文学者)|西義之]]、[[辻村明]]らがおり、中国封じ込め政策にも支持を表明した。一方で、[[丸山昇]]、[[野沢豊]]らの[[日本共産党]]主流派に近いマルクス主義者も「礼賛派」がいかに事実をねじ曲げていたかを厳しく批判した。
 
評論家の[[大宅壮一]]は幼い紅衛兵が支配者に利用されて暴れている様子を「ジャリタレ革命」と批判した。小説家の[[司馬遼太郎]]だけは当初文化大革命に肯定的であったが、中華人民共和国を訪れた際、子供に[[孔子]]に見立てた人形を破壊させる光景を目の当たりにし転向し反文化大革命、反中国共産党に転じることになる。
 
[[加々美光行]]も批判者たちは自由主義と共産主義とで正反対の政治的ないし思想的立場にありながら、そこには毛沢東の政治的保身に発する権力闘争以上のものでないとして歴史的、思想的意義を認めない立場に立っている点で相似していることを指摘したうえで、「文化大革命は、実際に社会主義理念をめぐる対立に由来するものであり、それゆえ、表面的にはともかく深層においては現代中国を呪縛し続けているのであって、文化大革命が提起しながら未決着のまま残された課題は多く、今後、中国の社会主義の動向、とくに[[中国民主化運動|民主化]]をめぐってその課題は再燃するであろう」と予測している<ref>[[加々美光行]]『歴史のなかの中国文化大革命』([[岩波現代文庫]]、[[2001年]] ISBN 978-4006000448)</ref>。加々美によれば、現在の中国では、文革時の出身による格差と通じる貧富の格差が極大化、[[汚職]]も横行しており、中国国民の[[フラストレーション]]が充満しており、[[習近平]]体制は汚職撲滅の為の取り締まりを強化しているが、「取り締まりの強化に呼応して、民衆の意識が過激化したらどうなるか。私は文革が絶対に再発しないと言い切る自信はない」として、文革の反省を胸に刻まなければ、と述べている<ref>『[[毎日新聞]]』2016年5月13日、[[加々美光行]]「文化大革命:識者に聞く 階級格差、混迷招く」</ref>。
 
現在も「文化大革命は世界同時革命の一環であった」として肯定的に評価する少数論者として、[[新左翼]]内の文化的過激派であった[[平岡正明]]がいる<ref>平岡正明「若松プロ、夜の三銃士」愛育社</ref>。また民主党の[[仙谷由人]]は与党として行った官僚の更迭や事業仕分けについて、「政治の文化大革命が始まった」と発言している<ref>{{Cite news|url=http://mainichi.jp/select/wadai/news/20091113k0000m040079000c.html|title=毎日フォーラム:民主政権の課題と自民再生への展望|newspaper=毎日新聞|date=2009-11-12}}</ref><ref>{{Cite news|author=ヤンヤン|url=http://news.livedoor.com/article/detail/4494734/|title=【ワイドショー通信簿】「独法新設おかしい!」 仙谷大臣の反論は…|newspaper=[[ジェイ・キャスト|J-CAST]]テレビウォッチ|publisher=[[ライブドア]]|date=2009-12-09|accessdate=2010-03-24}}</ref>。
 
[[谷川真一]]([[神戸大学]])の話によると、欧米の現代中国研究は文革を契機に[[近代化論]]や[[全体主義体制|全体主義モデル]]など[[システム論]]的な研究から、利益集団政治と制度論、集合行為などの理論を用いて中国問題の解明を経て[[パラダイムシフト]]を遂げたが、日本の文革研究者(或いは現代中国研究者)は、「文革に関する問い」を共有しておらず、独自の文革論を展開しているため、このような欧米の学問発展に無関心であり、その結果、学問的な理論を軽視したが故に無理論化し、日本の文革研究の停滞をもたらした、と指摘している<ref>『[[中央公論]]』2016年12月号、[[中央公論新社]]、p165、[[楊海英]]「日本は文化大革命50周年をどう論じたか」</ref>。
 
[[楊海英]]によると、日本のテレビ局スタッフが楊海英のもとを訪ねて来て文革の番組ができないか話し合ったという。その席で、文革の被害者が最も多かったのは内モンゴル自治区と広西チワン族自治区であったことなどの世界の最新の研究成果を伝えたが、そのテレビ局はこれらの事実に目を向けることなく番組を作ることとなり、[[ディレクター]]は「中国人が嫌がるような、日中友好の障害となりそうな番組は作らないほうがいい」と社内外の意見に押された結果だと嘆いたという。これについて楊海英は、「『'''嫌がる中国人'''』とは誰のことか。文革の被害者数については諸説あるが、1000万人に上るという政府高官の見解が中国国民に共有されている。この膨大な数の被害者家族らは真相の解明を嫌がるどころか、期待している。だが共産党政権は彼らを抑圧して実態解明を嫌がり、その結果真相解明がなされず和解も進まない。内モンゴル自治区での文革により、モンゴル人は日本のスパイや協力者として殺害された。日中友好を掲げる日本人は、その妨げとなる新たな歴史認識問題に飛び火する危険性がある為、中国が満州やモンゴルを植民地化してきたことへの言及は避けなければならなくなる。中国国民の真相解明への期待を直視することなく、習近平が嫌がる動きを自粛し、抑圧され続けている中国人が覚醒しても日本人は中国を客体化できていない。だから文革が歴史にならない」<ref name="中央公論2"/>と批判している。また楊海英は、過去に文革を称賛した者や日中友好を[[宗教]]のように信奉する人たちを、日本では[[左派]]や[[進歩的知識人]]と表現するが、「彼らは普段、人権や正義を看板として掲げている。だが文革に関する実証研究に不熱心である事実を見ると、彼らこそが歴史を反省しようとしない修正主義者だ、と指摘しておかねばならない」「日本はまさに思想や[[イデオロギー]]の面から中国を直視できない」「自縄自縛の歴史観と狭隘な文革感」と批判している<ref name="中央公論2">『[[中央公論]]』2016年12月号、[[中央公論新社]]、p167-p168、[[楊海英]]「日本は文化大革命50周年をどう論じたか」</ref>。
 
=== 後の中国共産党の対応 ===
1981年6月に第11期6中全会で採択された「[[建国以来の党の若干の歴史問題についての決議]](歴史決議)」では、文化大革命は「毛沢東が誤って発動し、反革命集団に利用され、党、国家や各族人民に重大な災難をもたらした内乱である」として、完全な誤りであったことが公式に確認された。