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'''千本氏'''(せんぼんし)は、[[那須七騎]]に列せられる日本の[[氏族]]のひとつ。▼
{{日本の氏族
|家名= 千本氏
|家紋
|家紋名称= <span style="font-size:70%">いちもんじ</span><br />一文字
|本姓= 称・[[藤原北家]][[藤原長家|長家流]]
|家祖= [[那須為隆]]
|種別= [[武家]]
|出身地= [[下野国]][[那須郡]]
|根拠地= 下野国那須郡千本
|人物= [[千本為隆]]<br>[[千本資俊]]<br>[[千本資政]]
}}
▲'''千本氏'''(せんぼんし)は、[[那須七騎]]に列せられる日本の[[氏族]]のひとつ。
__TOC__{{-}}
== 概要 ==
=== 出自 ===
[[那須与一]]の兄、[[那須為隆|為隆]]が下野国千本を賜った際に千本氏を名乗った。為隆は[[建久]]年間
=== 鎌倉時代から建武政権===
[[承久]]3年
=== 室町時代から安土桃山時代 ===
[[15世紀]]の初め、主家の[[那須氏]]が分裂した際には[[下那須氏]]に属した。[[永享]]11年
[[天文 (元号)|天文]]20年
資胤の死後、資俊の[[嫡子]]である[[千本資政|資政]]が妻であった[[大関高増]]の娘と離縁する。これに立腹した高増は、主君の[[那須|資晴]]に千本氏を討つことを勧め承認を得ると、資俊・資政親子は[[烏山]]に所在する[[太平寺]]へおびき出され殺害される。これにより千本氏の血筋は途絶えた。千本氏の遺領の一部は高増とその弟たちに分割され、残りは[[茂木治清]]の子である義政に分配された。千本城に入った義政は[[千本義隆]]と名乗った。
[[天正]]17年
[[慶長]]5年
慶長7年
=== 江戸時代以降 ===
慶長19年
義定が没すると、[[江戸幕府]]は後継ぎとして病弱な嫡子[[千本義昌]]ではなく義昌の子の義等を指名。義昌もこれに異論はなく[[隠居]]した。しかし義等は子がないまま父に先立って死去、[[末期養子の禁]]により千本氏は[[改易]]となった。その後義昌の次男の和隆が200石(後に1050石)で再興し、[[明治維新]]に至った。
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
; 史料
* 『[[寛政重修諸家譜]]』
* 『[[寛永諸家系図伝]]』
* 『[[見聞諸家紋]]』
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